一覧菅江真澄考

津軽の虫送りとさなぶり

「坂を下って船岡、床前、大館とくると」むしおくりをするというので、人の形代やむしのかたしろをたくさんつくって持ち、いろいろな紙の幟を風になびかせ、太鼓、笛、かね、ほら貝を吹き、ねりあるいてさわぎ、戯れ、舞いながら、あちこちの田の面をめぐっている。そしてしまいには、つるぎや太刀できりはらうまねもするということである。」(外ヶ浜奇勝)
 津軽地方では田植えが終わると虫送りの行事が始まる。
「さなぶり」行事が行われる時期だが、他地域でも「さなぶり」でなく、虫送り行事をしているところもあるので、五穀豊穣の祈りとすれば同根の行事と考えてよいものだろう。
この写真は男女だがサネモリの流れか?

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●さなぶりとは何か
真澄は夜中、枕元で猫が鼠を追い回すので眠れずにいると何かを落とした。
手探りで捜すと団子のようなものが落ちていた。
「そりゃあ田植え休みに作って窓口さ置いだ「さなぶり団子」じゃ。それが転がり落ぢだんじゃろ」と宿家の老人が笑った。
団子は萱草に刺しごとに窓ごとに置く。
――ほう、窓を塞ぐ餅の風習は正月と一緒じゃのう。
 と真澄は思考を巡らす。
さなぶりは漢字で書くと「早苗饗」であり、早苗(さなえ)のふるまいが変化して「さなぶり」となったようだ。
全国には様々なかたちで、この「さなぶり」行事がある。
飯田下伊那地方の「さなぶり」は、おおよそ、こんなやりかただ。
まず稲苗を二束、枯れたススキを実った稲に見立て、田んぼの水口に供える。次に家の神棚へ御神酒と稲苗を供え「無事、田植えが終わりました。豊作をお願いします」とかしわ手を打つ。飯島町本郷のおさなぶり
そして「おさなぶり」の料理。「ぼたもち」と魚(身欠けニシンか鯉の甘煮)がその主役だ。
昔の人たちに聞くと、おさなぶりは皆が集まって宴会だったそうだ。
田植えや稲刈りなど集中して人手のいる作業は、農家の人たちが共同作業でお互いにやりあう。これを「結い」(ゆい)と言う。
飯田の語源は「結いの田」から変化したとも言われており、今でも集落で手を貸し合っているところがたくさんある。沖縄のユイマールも同じ意味だ。
昔、田植えは集落の人々が支えあう大イベント。
「あすこの田んぼはどうの。まだ、あの家は「おさなぶり」じゃあねえ」とか、酒を飲みながらワイワイと一晩を過ごした。
ゆえに手伝ってくれた人々を労う饗応のことを「早苗饗」と言い、豊作を祈願する行事にともなう「ハレ食」なのだ。
●津軽の虫送り
津軽地方では「さなぶり」の期間中に、害虫駆除と豊作祈願として「ムシオクリ」あるいは「ムシマツリ」と称する行事が行われる。
「ムシ」と呼ぶ巨大な蛇を製作し、笛や太鼓などで賑やかに囃しながら集落内を練り歩き、最後に集落の境にムシを安置する。
ねぶた祭りに匹敵する行事だが、県外の人にはあまり知られていない。
そのため県外の人が集落の境に掛けられた「龍」か「蛇」のようなムシを見てビックリだ。
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 この風習とは違うパターンが今別町の「荒馬祭り」である。
 虫送りの行事の中で、「ラッセーラー ラッセーラー」というかけ声と賑やかな太鼓と笛と手平鉦のお囃子に乗せ「ねぶた」が巡行される。
特徴的なことは「荒馬(あらま)踊り」だ。
荒馬は天正13年(1585)頃、大浦(のちの津軽)為信が津軽を統一してとき、藩経済を保つため、馬と農耕と結びつけ五穀豊穣を願ったことが由来らしい。
働き者の馬(男)が大地を踏みしめ、馬の手綱を取る女性たちが軽快に跳ねる。
男女が対になって踊る珍しい形であり、神送りの行事でもある。
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大川荒馬

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