むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす 芭蕉
歳時記では「中秋の季語」とされる「虫送り」は7~8月に行われる。
今年のような猛暑続きでは、どう考えても夏だ。
この句は虫送りとも関係はないとも、いろいろな解釈があるようだ。
芭蕉は元禄2年(1689)3月末に旅立ち、約150日間で東北・北陸を巡り、元禄4年(1691)に江戸に帰った。
真澄は「外浜奇勝」で、寛政8年(1796)6月と7月に虫送りの様子を記述している。
つまり芭蕉が奥の細道で訪れた当時は、虫送り行事はまだ東北で定着していなかったが、真澄が東北に入った100年後には定着しており、その間に定着するだけでなく、独自の形態ができあがり文化に昇華していったわけだ。
●虫送りの行事
稲作が始まった縄文後期?から悩まされた害であり、稲作の伝播と共に何らかの呪術的な祭祀が存在したと推測するが、現在各地に残る虫送りの行事は、元禄以後に東北まで拡大したことが分かる。
全国に残る虫送りの行事の基本形は、五穀豊穣を祈願し、稲の病害虫を払う行事で、害虫(ウンカ)駆除や「いもち病」の予防が主な行事の目的となっている。
その虫送りは西日本を中心に、稲に怨念を持った源実盛(みなもとのさねとも)が害虫となり、災いを為しているという伝承の行事となっている。
平氏の源実盛はなぜ、稲に恨みがあるか。実は次の伝説がある。
斎藤別当実盛は石川県加賀市篠原で、源義仲の軍と戦った。その戦いのさなか、乗っていた馬が田の稲株につまずいて倒れたところを義仲の兵に討ち取られた。
その恨みは稲に向かった。稲につく害虫と化した実盛は稲を食い荒らすようになったそうだ。
少々八つ当たり感がある怨霊である。
そこからウンカ(稲虫)は「実盛虫」に転化した。西日本ではこの実盛の怨霊を鎮める神事としてサネモリと名付けられた虫送り行事が農村に拡がった。
サネモリの伝承は愛知県東限とされるが、東北にも藁人形の風習は残っている。藁人形の大小はあるが、実盛と思われる顔が描かれている。
虫送りの呼び名や歩くときに唱える文句は、地域によってバリエーションがあるし、藁人形は無く松明行列だけのところもある。
三重県熊野市の丸山千枚田では棚田の畦灯りに松明、飯田下伊那地方では「三国」と呼ばれる筒花火が披露される。
“松明に虫の飛ぶ見ゆ虫送” 正岡子規
※津軽の虫送りと「さなぶり」に続く