一覧菅江真澄考

夏泊半島の菅江真澄7ー都波岐神社の不思議

真澄の文章の特徴は、目の前の情景や出来事に古今和歌集ほか古歌や各地の伝説を想起させる言葉が編まれていることだ。
真澄の頭の中には古い和歌の辞書が存在していたのだろう。
それにしても初聞でそれらを結びつけて書き留めている点は天才肌と言えるかもしれない。
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白砂村よりしらす越えの坂道から、雨風がひどくなった。
――ここは一端、休み取りで。
と真澄は考え、浦(村)長の家の軒先で雨宿りしていると、
「雨はやみそうもねはんで泊まっていげじゃ」
と浦長に言われ一晩お世話になることとした。
昨夜の嵐は過ぎ去り快晴の早朝、浦長宅を暇(いとま)して椿碕へ向かう道すがら真澄は思い出す。
――そう言えば男鹿の椿の浦も海榴(つばき)が生い茂っていた。
深浦の椿碕にも椿の群落があったが鹿に食われたと聞いた。ばって、海榴ずものは海辺さ生えるものなのか。
 自分でも呆れるくらい椿繋がりの話が湧き出てくる。
道を外れて崖を降り浜に出ると、二つある磯辺の山に年を経たヤブツバキが枝木も見えないほど生い茂っていた。
花は半ばとのことだが、紅色を含んだ花が朝日にまばゆく映え、潮と花の香りが満ちあふれていた。
“影おつる礒山椿紅に染めて汐瀬の浪の色こき”
――ほうぉこれは見事じゃ。奈良巨瀬の春野の玉椿(*1)だとて、とうてい及ばんのう“
朝凪に見事に花が咲いた景色に、真澄は一人呟いた。
 子どもたちが散った花を拾い、蜜を吸って遊ぶ中を、真澄は分け入り椿明神の社の前に出る。
ちょうど浦人らしき者を見つけ真澄は問うた。
「伊勢がら勧進すてぎだ神様だが?」
 すると浦人は、
「いらへて、いなこの神は女神也」と決めつけて言う。
真澄は素直に女神であると書き留めたが、伊勢の神かと問うたとき、浦人は違う明確に答えた。
――さてさて、伊勢の神様は天照大神ゆえ女神なのだが・・・。
都波岐(椿)神社
現在の縁起書には主祭神は女神ではなく猿田彦命であり、元の椿大明神も猿田彦神である。伝説から女神になってしまったのか、あるいは猿田彦命と夫婦になった天宇受売命(アメノウズメノミコト)を指しているか。
ちなみに天宇受売命(天鈿女命)は天照大神が天岩戸に隠れたとき、岩戸の前でストリップを踊り、大神を引っ張り出すことに成功した女神である。
 古事記で「猿田毘古神」と記述される猿田彦神は、天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を道案内した猿田彦大神とされる。その謂れから江戸時代に入って「サル」の音から庚申講(*2)と結び付けられた。また「白鬚明神」として天狗のような姿で全国各地に祀られている。
真澄が訪問した仙北市、佐倍能加美神社(庚申塔)
 伊勢神宮内宮と猿田彦神社は隣であり、伊勢の女神との関係性は深い。椿神社は伊勢にある猿田彦神社から椿と一緒に勧進されたと考えることが素直かもしれない。
その猿田彦神社には夫婦であった天宇受売命を祀る佐瑠女神社がある。この夫婦神を共に勧進したとすれば男女神が一緒にいても整合性はとれるが、正解は分からない。

*1:巨瀬の春野の玉椿:奈良町の付近に巨勢町は存在するが椿は見当たらず、現在のどこなのか不明である。
寛永年間に興福寺から白毫寺に移された五色椿(樹齢400年で樹高5m)が現在、奈良県でもっとも有名な椿であるが地名が違う。
*2: 庚申講:六十日ごとの庚申(かのえさる)の日、宿に当たった家に集まり、庚申(こうしん)様を祀って一夜を過ごす。
これは庚申の夜に「人間の体内にいる三尸(さんし)の虫が天に昇ってその人の罪科を天帝に告げるために命が縮められる」という中国の道教が民間信仰として広まり、庶民は仲間を組織して、庚申の夜は一か所に集まり、寝ないで一晩を明かす「庚申講」を始めた。これを3年18回続けたときに記念で建立したのが「庚申塔」である。
庚申塔は村落の入り口などに建てることで「塞ノ神」として役割を兼ねているところもあり、「庚申」と彫られた石塔・板碑を全国で見ることができる。類似に「庚申供養塔」や「青面金剛像」がある。

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