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菅江真澄考・青森県平内町夏泊半島編7

伊能忠敬が測量で全国を歩いた総距離は4万3682Kmと軽く地球一周を超えている。
    それ以上歩いた日本人は昭和の民俗学者「宮本常一」(1907~1981)だ。
    その総距離は16万Kmと地球を4周する距離である。
    ちなみに地球を周回する人工衛星は1時間半から二時間だ。
    もちろん当時の移動手段は、馬や篭という乗り物があったが基本は徒歩である。
    通信も未発達の時代でパソコンやスマホはないから位置情報や地域情報は得られない。
    しかし以外なことに、現在の人々より旅をしていた。
    旅は人生を豊かにさせる学びになる。

□野辺地の関所
 馬門(野辺地町)に着いたのは暮れ三つになっていた。真澄はここで宿を取ることにした。
 この野辺地の湊は北前船が立ち寄り、大いに賑わっており、歴史的に見れば現在と全く違う経済圏の青森であったことが見えてくる。
 街は商人が忙しく歩き回り、近在の農家や漁家が市を出して客の足を向けさせる。
 通りは小荷駄の馬や荷車、篭を背負ったかっちゃにボサマも歩く賑わいであった。
 明くる朝、南部藩関所へ出向き、関手(関所手形)を役人に差し出す。
「おめさ、どこさいくど」
 と番所の役人は問う。
「わぁ、いっとま浅虫に行ってくるけぇ」
 と返答し余計な話は避ける。
「おぉ浅虫けぇ。え温泉らしいな。わも行ってみてえのぉ」
 役人は笑いながら関手を返してよこす。
   “馬門の関にれいのせき手出して、やをら越ゆ”
馬門番所跡
 ――これで通行は大丈夫だ。
 ところで真澄が関所で出した「れいの手形」とは、どこでもらったものだろうか。
 下北半島に残る真澄の書物を探索すれば、誰がいつ発行したかが判るかもしれない。
 元々青森は全てが南部藩の所領であった。だが秀吉の時代、大浦(のちの津軽氏)為信が津軽藩として独立して以降、藩同士の仲違いで常に小競り合いが続いた。それでも江戸時代では海も陸も往来が活発化したことで番所の手続きは緩くなっていた。
 明治元年(1968)に突然、津軽藩が南部領に侵攻した野辺地戦争が最後の戦だが、残念ながら明治維新までずっと緊迫したエリアであった。
 そうしたこともあり廃藩置県後、県庁をどこに設置するかで南部と津軽は綱引きをした。新政府にしてみれば、古臭い津軽と南部の確執などに時間は掛けられない。そこで両藩から一番遠く政治・経済など地政学的にみても良く分からない青森市を県都と定めた。

□藩境を越えて
 春の心地よさは野辺地の喧噪さえ優しく聞こえ、旅の足取りは軽い。
 ほどなく小さな小川を挟んで二つずつ整然と並ぶ盛り土が見えてきた。
 この盛り土の藩境は慶長9年(1604)、徳川幕府の命で全国に一里塚の設置が義務づけられたことを受けて承応年間(1652~1654)に構築されたといわれる。
 だが四ツ森(県指定史跡)と称される2基1対の上盛り塚は全国的にも珍しく、真澄はのちに岩手県で見ているが他所で見聞したことがなかった。
 ――川の名前は境川か、ここが本当の藩境なんじゃな。
藩境
 川をひょいと飛び越えれば、狩場沢(平内町)であるが、ここにも関所があった。
藩境
 青い森鉄道の狩場沢駅は、駅舎から風光明媚な陸奥湾の見ることができる。
 いわゆる「映える」この付近のパノラマビューは、平内町のフォトスポットとして絶好の場所だ。

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