“名残さへ浪路へだてて出る舟を思ひの絆ひきもとどめず”
世話になった松前の人たちに手を振る。
アイヌ反乱の件を、つい気を許した友人に話したかもしれない。
そのことを幕府の役人に知られることを危惧した松前藩は、真澄を追放することに決めた。
冬の海は危険だが真澄は仕方なく極寒の津軽海峡を下北半島行きの船に乗った。
3.円空仏の誘い(いざない)
昭和29年(1954)の青函連絡船洞爺丸の事故は台風が大きな要因であるが、普段から対馬暖流と千島寒流がぶつかり合う複雑な海流の津軽海峡である。
案の定、真澄が乗船した船は潮の流れに翻弄された。
“良い日和で潮流も穏やか、こんな凪の日は珍しいと、酒を飲み交わし、船べりを叩いて唄っているうちに奥戸の浜に着いた”と真澄遊覧記には記述しているが、これは負け惜しみの言であろう。
もちろん4年も暮らした松前から、慌ただしく出た理由は日記に書き留められていない。
実際は酷い船酔いのなか、下北半島の奥戸(おこっぺ)の浦に着岸したのは寛政四年(1792)の真冬であった。
――これは円空仏(*1)のご加護と誘いに違いない。
真澄は東北や北海道で円空仏を探し訪ね歩いており、いつか恐山の円通寺の円空仏を訪ねたいと、かねてから機会をうかがっていたからだ。
下北半島では拝顔したい円空仏だけでなく、南部馬も見たかった。
これまた幸いなことに着岸した奥戸には南部馬の放牧場「奥戸の牧」があった。
渡海の疲れが癒えた真澄はさっそく降りしきる雪の中を「奥戸の牧」へ向かった。
――ほうぅ、これが平安の昔、阿部一族が繁殖した名馬か。
雪中で放牧されている寒立馬に身を震わせた。
□真澄と恐山
下北半島滞在中に都合5回、恐山に登っており、真澄のお気に入りの場所である。
“此みやまは慈覚円仁大師のひらき給ひて、本尊の地蔵ぼさちを作給ひ”(まきのふゆがれ)で真澄は書いている。
慈覚大師が山で修行中、飛翔する鵜を見て、近くに水辺があると思い発見したのが宇曽利湖(うそりこ)で、そこに円通寺を開いた。ゆえに昔は「ウソレヤマ」と呼ばれていた。恐山円通寺には円空仏があり、今も2体の観音菩薩像が伝えられている。
真澄は恐山の山坊に着くとまず、汗や塵を落とすために風呂に入る。いわば禊ぎの代わりである。そして供物として団子を5つ高寺に供え円空仏を拝顔した。
何度も通ううちに恐山へ行く目的が円空仏から、湯治が真澄の楽しみになっていった。
下北半島では「死ねばオヤマさ行ぐ」と言う。
古くからの山岳信仰と仏教とが習合した結果、山には霊魂が行く浄土があるとする『山中他界観』(*2)を色濃く残すのが恐山信仰なのだ。
この恐山信仰を支えているものに通称「ババ講」と呼ばれる『地蔵講』があった。
毎月24日に行われるため通称「二十四日」とか「ジンジョサマの日」と呼ばれ、村は休みとなる。
60歳になると「仲ばさ入れ」とババ仲間に言われれば「ひたら、一緒ね面倒みてけれ」と承諾する。
当時60歳は長生きである。下北のババは元気だった。この会が単なる民間信仰の集まりでないからだ。ババのいない家は、若い嫁でも加入しないといけない。
仲間(ババ会)は礒ものの「イソマワリ」(漁業権)を持っていて、加入しないと布海苔やアワビ、ウニなどを獲ることや山菜採りさえできなかったためだ。
現在はもちろん自由だが、当時のババ様は海と山に絶大な力を持っていたのだ。
(*1)円空仏:円空(えんくう、1632-1695)江戸時代前期の修験僧(全国を回り歩く僧)で仏師。歌人。全国各地に円空仏と呼ばれる独特(ゴツゴツとして野性的だが、不思議な微笑をたたえている)の作風を持った木彫りの仏像約12万体を残したと言われる。
(*2)『山中他界観』:飛鳥時代から奈良時代頃に成立した日本人の死生観と専門家は言うが、筆者は縄文時代からの根源的な死生観が仏教や山岳信仰が結びついたと考える。