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土着する・日高見国編―徐福王国

なぜ関東に日高見国と言う縄文王国が存在したか。
ここに入るには太平洋を黒潮に乗って北上するルートしか思い浮かばない。
太平洋を北上したと目される人物で有名なのが「徐福」だ。
司馬遷が著した「史記」に「徐福は斉(せい)の人なり」と記載されている人物で、徐福村(現在の中国江蘇州かん楡県徐阜村)の発見もあり実在したと見られている。
秦の始皇帝が紀元前219年、始皇帝は東方にあるとされた蓬莱山に、不老不死の仙薬があるので探してこいと徐福に命じた。
総勢3000人の集団を引き連れた徐福は、蓬莱山に向けて中国の山東半島から船出した。
***
徐福は目指した蓬莱山が日本にあると思っていたのか?
第一期では九州の有明海から上陸したが、蓬莱山ぽいって山は見当たらず、連れてきた秦国の一部の民を残し探索を続けさせ帰っている。多分火の国阿蘇を目指させたのだろう。阿蘇山なら神仙の山として申し分ない。秦国の民は律儀に探し続けたことで九州各地に伝説が残ったのだろう。そうした点からやはり伝説では無く徐福は日本に到達しており、「秦氏」の祖先となった。
徐福は再び日本を目指す。鹿児島から太平洋側を北上するルートである。
徐福は黒潮に乗り、熊野灘を経て奇岩が各所に点在する紀伊半島で探索した。
和歌山県新宮市・徐福公園
新宮市には徐福の墓(徐福公園)がある。また熊野市の矢賀に上陸し、帰国を断念した徐福はここで定住。土木や農耕、捕鯨、医薬、焼き物の技術を伝えたという。後にこの里は秦住となり現在は波田須という地名となった。
波田須の里
熊野市・秦住の徐福の墓
だが徐福船団の本隊は北上した。そして海から立派な山を見つけた。霊峰富士山である。
これこそ蓬莱山と徐福は狂喜したに違いない。だがここでも仙人に逢うことなどなかった。
ここで同行した秦の民からは不満が噴出する。彼らは船乗りで無く、かつ男女の子ども達を同行させており、長い船旅で病気も蔓延していただろう。
ここで徐福は決断する。彼らをどこかで下船させ定住させよう。身軽になって蓬莱山探しをしようと考えた。徐福は民をなだめ終の住み処を探す船旅に切り替えたのだ。
そして見つけたのが「葦原の中つ国」だった。
ここに徐福王国を建設した。国名は「日高見国」である。
***
景行天皇の時代に、武内宿禰は密偵として東方諸国を見聞させている。もちろん日高見国が主たる探索地域であった。
しかし武内宿禰はなぜか「東の夷(あずまえびす)の中に日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という」と報告をしている。徐福王国であれば、もっと近代的であったろうと想像するが、連れてきた民は狩猟と農耕民中心であったろう。中国の王族ではないなら文化レベルは低い。もし高いレベルであっても未開の地では維持できなかったかもしれない。
だが徐福は馬を連れてきているはずだ。上陸して探索するには馬が必要だったからだ。
そして徐福王国(日高見国)では、その馬を繁殖させていたに違いない。
当時の日本ではまだ馬は僅かしかいなかった。だが宿禰はその報告がしなかった。本当に馬を見なかったのか?
鉄を始め様々な鉱山開発は探っているだろうし、豊富な水で初期の稲作もしていただろう。
妄想だが「山繭」は徐福が中国から持ち込んでいるかもしれない。
飛鳥のヤマト政権には、とても太刀打ちできない豊かな国であり、報告を受けた景行天皇は、どうして手に入れたい国のトップに入った。
もう一つ徐福王国に繋がる面白い報告を宿禰はしている。
それは蝦夷は「短弓」を使うと言う報告だ。
徐福のふるさとは中国の江蘇州である。
項羽と劉邦が覇権争いをし、秦国が成立した時代であり、戦闘では軍馬が活躍していた。
日本は後の源平合戦でも長弓を用いた。
あの那須与一が舟の扇の的を射貫いた逸話でも馬から長弓である。
那須与一像
だが大陸の騎馬戦では短弓だ。
これこそ間違いなく中国から渡ってきた民である証明なのだ。
だが日高見国は大した抵抗もせず景行天皇に屈している。徐福の国は争いを好まない部族だったか、纏まった武力すら有していなかったと見る。まるで現在のウクライナのようだ。
徐福伝説はさらに北上して青森の津軽、小泊の権現崎、そして日本海を下り男鹿半島に至る。やはり徐福はひたすら北上したのだ。

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