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土着する・アラハバキ妄想編―日本国は二つあった

日本列島はプレートのせめぎ合いから大陸から引き剥がされた。そのため日本には人は住んでいなかったが、氷河期にナウマン象などを追いかけて凍った海を渡ってきたのが縄文人となった。
土着とは言っても地球規模から考えれば、日本という国土に移住した外来者が日本人であるわけだ。ゆえに大陸時代からの信仰が日本に根付いたのである。
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前回、戸谷学の説「ミシャグジ神はフォッサマグナである」は凄い説であるが、これも地球レベルで考えれば当然の帰結かも知れない。
もちろんその後も日本海の大交流時代が続き、様々な人種や文化が入ってきた。現在の鎖国のような移民政策を続け、日本人は単一民族だと宣うバカ政治家や識者は、考えを改めていただきたい。
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縄文からの時代を調べて明らかなのは、東西日本の文化の成り立ち・違いである。
ここは取りあえず東日本のことを書く。
信州と津軽は同族であると見れば、様々な事柄が一緒である理由が理解できる。それは出雲族であり守屋氏である。さらに遡れば「夏」の末裔であるのだ。中国から這々の体で逃げてきた「夏」の末裔は出雲→諏訪を追われ東北へ逃げていき、青森・秋田でようやく腰を落ち着け新たな国づくりを行った。秋田大湯のストーンサークルや青森の三内丸山、そして十三湊も同じ文化圏で繋がる故に、龍神や石神信仰が色濃く残るのである。
青森県の下北半島の根元にある東北町野辺地町。ここの日本中央の碑歴史公園内の「日本中央の碑保存館」で展示されている。この碑を建立したのは、征夷大将軍の文屋綿麻呂だそうだ。
東北への征夷大将軍と言えば、坂の上田村麻呂が有名で、東北各地に「田村麻呂神社」がある。
しかし田村麻呂はこれ以上、東進するとヤバいと感じ青森までは遠征していない。その後に文屋綿麻呂が征夷大将軍に任命され、青森まで到達したのだ。日本中央の碑
問題はなぜ、綿麻呂は「日本中央」と言う碑を建てたのか?
現在の日本地図を見ても中央ではない。つまり青森を中心にした「日本」が存在した証である。
では西日本は何と言ったか。もちろん「倭国」であり「大和」だろう。にも係わらず、いつしか日本に統一された。それは侵略し征服した政権は海外から認められない政権であったからだ。だから文屋綿麻呂は正直に残してしまった。
日本における古い土着民は東京から東の民であったが、天津神の勢力は各地で国譲りと称した侵略で、国津神を駆逐していった。とは言うものの完全に古くからの信仰を棄てさせる手法でなく、国津神達を天津神に書き換える「誓約(うけい)」と言う手法だ。手っ取り早いのが「結婚」てある。諏訪の建御名方と八坂刀売姫(玉依姫命)の政略結婚など、まさに「誓約(うけい)」の賜なのだ。
古代神を制御しつつ一部だけ解放するやり方は、モンゴル帝国のチンギス・ハンだ。
チンギス・ハンは征服した地の宗教や風習には非常に寛大であったという。遊牧民であったモンゴルの民には、土地は重要でなく人と家畜であり、人心を掌握することに心を砕いたのだろう。
この手法はキリスト教ではあり得ない柔軟なやり方である。
高天原の天津神は人を操ることに長けていた。ゆえに各所に古代からの神は生き残ったのである。
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さてチンギス・ハンを出したので妄想ついでに「義経成吉思汗」説に言及したい。
成吉思汗と義経
高木彬光の『成吉思汗の秘密』では、静御前が頼朝の前で義経を想い「しずやしず しずのおだまきくりかえし 昔を今に なすよしもがな」と詠う。この中の「なすよしもがな」を「吉成りて汗を思う」と読み替え、すなわち「成吉思汗」は義経であると推理する。
静御前
実際に奥州で死んだはずの義経の足跡が北海道まである。いわゆる「義経北行伝説」だが、これは全てが偽伝説であろうか?
本当には偽だろうか?ほとんどの人が突飛な英雄譚であると否定するが、私はどこかに真実があると見ている。
私は津軽半島の義経神社や北海道に渡ったとされる御厨港も訪問したことがある。
義経が生きていたとしてその逃亡先は、藤原氏と同様に関係が深かった十三湊の安東氏だろう。
十三湖(十三湊)は太宰治が「津軽」で「貝を伏せたよう」と評した汽水湖である。何となく島根の宍道湖と似ており、宍道湖と同様に「しじみ」の大産地である。
「十三(とさ)」はアイヌ語の「トー・サム(湖・湖のほとり)」である。
この十三湊は古来より「安東水軍」の勢力下で北海道やロシア、中国との交易により栄華を極めていた。天然の良港であった十三湊だが、次第に堆砂し港の機能が悪くなったのか、それとも他の理由があったのか不明だが、安東氏は十三湊を棄てて出て行った。平家と戦った義経が率いる水軍は、もしかしたら安東水軍の手の者もいたかもしれない。当時の栄華を知るには、五所川原市立「市浦歴史民俗資料館」を訪ねると良い。
かなり周辺の発掘が進んでいるが、津軽の大勢力が現れたときには新たな日本の歴史が見られるかも知れない。
義経は安東氏の居城「唐川城」もしくは「福島城」を目指した。そこで暫く滞在後、安東氏の船で北海道にわたり、さらに大陸に渡り、成吉思汗としてモンゴル帝国の祖となった。

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妄想極まれりだが、藤原氏の黄金は北海道産、それを運搬していた安東氏。メチャ繋がるんだな。

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