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	<title> &#187; 菅江真澄考</title>
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		<title>鬼が住まう津軽</title>
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		<pubDate>Thu, 10 Oct 2024 01:56:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[菅江真澄考]]></category>

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		<description><![CDATA[寛政8年(1796)3月1日、真澄は鬼沢村にいた。 “いまでも大人（おおひと）というものが岩木山の北赤倉の岩屋に住んでいて、ときにみかける人がいるという。また、あやしい物語であるが、村長太田藤左衛門の家に、鬼のへそという [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>寛政8年(1796)3月1日、真澄は鬼沢村にいた。<br />
 “いまでも大人（おおひと）というものが岩木山の北赤倉の岩屋に住んでいて、ときにみかける人がいるという。また、あやしい物語であるが、村長太田藤左衛門の家に、鬼のへそというものを、遠い先祖からもち伝えており、その家には上窓がなく、また節分には豆まきをして鬼を追うこともなく”（ 津軽の奥）<br />
 寛政10年(1798)6月2日も鬼沢村から岩木山に入ろうとしていた。<br />
“ここには鬼神もかくれすんでいて、時には怪しいものが峰をのぼり、ふもとにくだるという。その身の丈は相撲の関取よりも高く、やせくろずんだその姿をみた人もあるが、それを一目見ても、恐怖のあまり病いのおこる者がある。また、それとなれ親しんで、兄弟のようになかよくなり、酒肴などを与えると、さっと飲み食いして、その返礼として山の大木を根こぎにしたり、あるいは級（しな）の木の皮をはぎ、馬二、三匹につむほどの量をかかえてもってきてくれた”<br />
<strong>●岩木山の大人</strong><br />
　鬼沢村には本当に大きな人が住んでいたのだろう。<br />
　真澄は村人たちが「おおひと」「やまのひと」「山の翁（やまのおつこ）」と呼んでいた。と外浜奇勝（三）で書いている。<br />
　大人の話は前述以外も日記に度々登場するが、すべて巌鬼山の麓の赤倉に集約される。<br />
　岩木山は中央が岩木山、左が鳥海山、右が巌鬼山と三つの山で構成される。<br />
　赤倉信仰（修験道）はその巌鬼山を勝手に赤倉山と呼んでいる。<br />
　この赤倉信仰は「荒吐神」(アラハバキ)伝承に繋がるが、ここでは記述しない。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/639d4835d204047ed2f3df26639ae7c0.jpg" rel="lightbox[2015]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/639d4835d204047ed2f3df26639ae7c0-300x193.jpg" alt="巌鬼山神社" width="300" height="193" class="alignnone size-medium wp-image-2016" /></a><br />
“鬼沢村には鬼神の祠があり、そこに五尺あまりの鍬がある。これは、ここに田をつくろうとして水乞いの祈りをしたとき、一夜のうちに山の水が逆に流れでて、山田にもせきができてはいった。そのひいたあまりの流れは赤倉に落ちてゆき、行方はどことも知れなかったという”<br />
　村では田の水に苦慮していたところに、大地震が発生、一夜で河道閉塞により土砂」ダムができ、流れが変わり、新たな川ができたのかも知れない。<br />
　鬼沢菖蒲沢地区にある「鬼神社」は、前述の鬼を祀ったとされる。社伝では延暦年間に坂上田村麻呂が岩木山麓に当社を勧請したとある。<br />
　またまた田村麻呂礼賛だ。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/395be0e7e66139f531ca798588fd08cc.jpg" rel="lightbox[2015]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/395be0e7e66139f531ca798588fd08cc-300x213.jpg" alt="鬼神社1" width="300" height="213" class="alignnone size-medium wp-image-2017" /></a><br />
　農民が、岩木山中の赤倉で鬼と親しくなり相撲を取って遊んでいた。鬼は自分のことを『誰にも言わないように』と約束を交わしていた。ある時、弥十郎は水田を拓いたが、すぐ水がかれてしまうので困っていたところ、話を聞いた鬼は赤倉沢上流のカレイ沢から堰を作って水を引いてくれた。村人はこれを喜び、この堰を鬼神堰とかさかさ堰とよび、鬼に感謝した。<br />
　こうした伝説からか鬼神社の社額の「鬼」の字には上部のノがない(角が無い)。<br />
　社額の両側には大鎌や鍬などの農業に不可欠な道具が奉納されている。<br />
　それを鬼の伝説として残したと考えれば納得がいく。<br />
　伝説や伝承はまったくのゼロから生まれることは無い。何らかの森羅万象の大きな出来事があると、それを話として残した。口伝で伝える伝承は当然ながら時代を経て変節し、様々な伝説が今に伝えられているのだ。<br />
<strong>●鳥居の鬼</strong><br />
　アイヌを鬼（化け物）とした話はあるが、この話以外、真澄は津軽で鬼にまつわる伝説は書いていない。<br />
　津軽には村の鎮守様と思える小さな神社の鳥居に鬼が鎮座する。<br />
　約30～40神社にあるらしいが全てを見ていないので、把握はできていない。<br />
　地元では「鬼っ子」と呼んでおり、それぞれ愛嬌がある姿を見ることができる。<br />
<div id="attachment_2016" style="width: 310px" class="wp-caption alignnone"><a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/639d4835d204047ed2f3df26639ae7c0.jpg" rel="lightbox[2015]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/639d4835d204047ed2f3df26639ae7c0-300x193.jpg" alt="巌鬼山神社" width="300" height="193" class="size-medium wp-image-2016" /></a><p class="wp-caption-text">巌鬼山神社</p></div><br />
<div id="attachment_2022" style="width: 310px" class="wp-caption alignnone"><a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/bf65cea591627a12eadede007920898d1.jpg" rel="lightbox[2015]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/bf65cea591627a12eadede007920898d1-300x212.jpg" alt="撫牛子八幡の鬼" width="300" height="212" class="size-medium wp-image-2022" /></a><p class="wp-caption-text">撫牛子八幡の鬼</p></div><br />
<div id="attachment_2021" style="width: 310px" class="wp-caption alignnone"><a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/c4425fa2c249354a82a22c97bf301c0a.jpg" rel="lightbox[2015]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/c4425fa2c249354a82a22c97bf301c0a-300x260.jpg" alt="中崎の月夜見神社の鬼" width="300" height="260" class="size-medium wp-image-2021" /></a><p class="wp-caption-text">中崎の月夜見神社の鬼</p></div><br />
　祀っている神様は同一ではない。<br />
　由来は不明だが、岩木川流域に集中しており、川を作ったりせき止めた鬼伝説とリンクしているように思える。<br />
　現在でも同様だが自然災害から生活を守りたい。豊作を願う。疫病からムラを守る。<br />
　毎年一生懸命祭をしても災害はやってきた。<br />
「あれほどお願いした。貢ぎ物もした。なのに神も仏も助けてくれなかった」<br />
　と村人はメジャーな神様に対して明らかな不信感を持ったに違いない。<br />
　どの神が信頼足り得るか、被災したであろう村人は考えた。<br />
「そうだ村の鎮守様をサポートする強力な「何か」を加えよう」<br />
　そこで伝説でも村を助けてくれた信頼できるのは鬼しかないと民間信仰が選ばれたとすれば納得がいく。古来から神社の神様とは別物の魔除けとして存在していたからだ。<br />
　真澄の日記には出てこないので「鬼っ子(鬼コ)」を見ていないわけで、この風習は真澄以後に登場したとみるべきだろう。</p>
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		<title>猿田彦(道祖神)は道教の神</title>
		<link>http://tiiki-saisei.jp/2008/</link>
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		<pubDate>Wed, 09 Oct 2024 00:45:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[菅江真澄考]]></category>

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		<description><![CDATA[先日、哲学者の内山節さんに、猿田毘古神(サルタヒコ)はどういう神様かと質問したところ道教の神でなかろうか？と答えてくれた。 猿田毘古神(猿田彦) は宮崎の高千穂に降臨した天孫降臨の道案内をした神だ。 その姿は大きな鼻に赤 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>先日、哲学者の内山節さんに、猿田毘古神(サルタヒコ)はどういう神様かと質問したところ道教の神でなかろうか？と答えてくれた。<br />
猿田毘古神(猿田彦) は宮崎の高千穂に降臨した天孫降臨の道案内をした神だ。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/34f508e5e327ad2ed183af57d4f93bb0.jpg" rel="lightbox[2008]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/34f508e5e327ad2ed183af57d4f93bb0-300x267.jpg" alt="穂高神社の餅つき道祖神" width="300" height="267" class="alignnone size-medium wp-image-2009" /></a><br />
その姿は大きな鼻に赤い顔と「天狗」に比定される異形の姿で、中韓や日本人ではない。<br />
　これだけでも、外つ国からやってきた神と分かるが、道教（キョンシー退治をする道士の教義）は、元々中国で発生した宗教だが本国では絶滅状況と聞く。<br />
　老子を祖とする道教は、その老子を「太上老君」として最高神としている。<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/f2b922359fe9a4f3552c90ac689dacca.jpg" rel="lightbox[2008]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/f2b922359fe9a4f3552c90ac689dacca-203x300.jpg" alt="太上老君" width="203" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-2010" /></a><br />
　後漢滅亡後、呉・東晋・宋・斉・梁・陳の六朝時代（随が建国するまで）後半に仏教や儒教が一般化していった。<br />
　その道教と日本の古神道や密教を融合させたものが、かの安倍晴明が確立した陰陽道だ。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/796ddd9f5a75d76f1494425f710e0288.jpg" rel="lightbox[2008]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/796ddd9f5a75d76f1494425f710e0288-212x300.jpg" alt="安倍晴明" width="212" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-2011" /></a><br />
特に星見（天体観測）や暦づくり、卜占など道教の影響を色濃く残す陰陽道が、庶民生活に根を下ろしていく中で、猿田毘古が導きの神となり、ムラの境に置かれる塞ノ神・道祖神になっていったと推理すれば納得がいく。<br />
　真澄は道教とか陰陽道の記述はないので、学んでいたとは思えない。<br />
　ただただ面白いコトとして民の風習や祀りを記録しただけなのだ。<br />
●巨大な藁人形道祖神<br />
　真澄は秋田で様々な「人形道祖神」を調査し記録している。<br />
　例えば大館市雪沢地区の「ドジンサマ（ドンジン様）」と言われる男女の赤く塗られた木像を見ている（おがらの滝）<br />
　真澄は「避疫神」として図絵に残しているがまさに塞ノ神であり道祖神である。<br />
　名称の「ドジンサマ」は漢字にすると「土神様」なのだろう。<br />
　一体だけで双体道祖神ではない場合もあるようだ。<br />
この「ドジンサマ」と同じ役割（疫病侵入を防御）する「カシマサマ」（あるいはショウキサマ）という大きな藁人形もある。<br />
　真澄はその「カシマサマ」を大仙市隣の三郷町の本堂城跡で見て記録している（月の出羽路）<br />
　例年12月上旬頃に行われる「ジンジョ祭」を真澄は見ている。<br />
　神輿や山車をぶつけ合うのはよくあるが、この祭は町内を歩き回り「ジンジョサマ」と言われる人形をぶつけ合う奇祭のようだ。<br />
　祭の前の「八皿の儀」と言う神事を真澄は書き留めた。<br />
　小さな7つの盃の酒を注ぎ、それを大きな器に移して飲み、無病息災や豊作を祈願の行事だという。<br />
　こうした神事も人形道祖神の祭りの中で現在も行われている。<br />
　また前回の「津軽の虫送り・さなぶり」で書いた「さなぶり団子」と似た風習が秋田にある.<br />
　山吹の枝と笹に米を載せて魔物の侵入を防御する「マドフサギ」と魔除けの呪いだ。<br />
　筆者も真澄がスケッチした「軒の山吹」を秋田県立博物館の隣にある「旧奈良家」住宅で再現しているのをみた。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/ff78a4b505d74e25538ba191b7b29fa5.jpg" rel="lightbox[2008]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/ff78a4b505d74e25538ba191b7b29fa5-300x216.jpg" alt="旧奈良家・軒の山吹" width="300" height="216" class="alignnone size-medium wp-image-2013" /></a><br />
　事ほどさように田植え後の行事は多様化、拡散していくが、疫病や大飢饉などで生死を彷徨った民衆の祈りが為したものだろう。<br />
　実は前回の「津軽の虫送り・さなぶり」で写真を掲載した二体の大きな藁人形は、青森県内で唯一残る十和田市の人形道祖神だったので、改めて修正しておきたい。<br />
<div id="attachment_2006" style="width: 302px" class="wp-caption alignnone"><a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/DSC_1134.jpg" rel="lightbox[2008]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/DSC_1134-292x300.jpg" alt="DSC_1134" width="292" height="300" class="size-medium wp-image-2006" /></a><p class="wp-caption-text">DSC_1134</p></div><br />
我々の先祖は、狩猟採取の時代から森羅万象を畏怖し敬い、今日の糧を得たことに感謝して生きてきた。<br />
　もちろん神様は「山の神」で、稲は中国からの輸入でも神までは招いてはいない。<br />
日本は様々な宗教や学問、民間信仰など受け入れてきた。<br />
しかしその全てを咀嚼し、八百万神の中に封じた。<br />
真澄のまなざしは神と仏は分けず、神仏も自然も伝承も同じテーブルに載せ、そうした民衆の祈りや自然、伝承などそこにある事実を淡々と書き留めている。</p>
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		<title>津軽の虫送りとさなぶり</title>
		<link>http://tiiki-saisei.jp/1999/</link>
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		<pubDate>Fri, 04 Oct 2024 05:40:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[菅江真澄考]]></category>

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		<description><![CDATA[「坂を下って船岡、床前、大館とくると」むしおくりをするというので、人の形代やむしのかたしろをたくさんつくって持ち、いろいろな紙の幟を風になびかせ、太鼓、笛、かね、ほら貝を吹き、ねりあるいてさわぎ、戯れ、舞いながら、あちこ [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>「坂を下って船岡、床前、大館とくると」むしおくりをするというので、人の形代やむしのかたしろをたくさんつくって持ち、いろいろな紙の幟を風になびかせ、太鼓、笛、かね、ほら貝を吹き、ねりあるいてさわぎ、戯れ、舞いながら、あちこちの田の面をめぐっている。そしてしまいには、つるぎや太刀できりはらうまねもするということである。」（外ヶ浜奇勝）<br />
　津軽地方では田植えが終わると虫送りの行事が始まる。<br />
「さなぶり」行事が行われる時期だが、他地域でも「さなぶり」でなく、虫送り行事をしているところもあるので、五穀豊穣の祈りとすれば同根の行事と考えてよいものだろう。<br />
この写真は男女だがサネモリの流れか？<br />
<div id="attachment_2006" style="width: 302px" class="wp-caption alignnone"><a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/DSC_1134.jpg" rel="lightbox[1999]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/DSC_1134-292x300.jpg" alt="DSC_1134" width="292" height="300" class="size-medium wp-image-2006" /></a><p class="wp-caption-text">DSC_1134</p></div><br />
<strong>●さなぶりとは何か</strong><br />
真澄は夜中、枕元で猫が鼠を追い回すので眠れずにいると何かを落とした。<br />
手探りで捜すと団子のようなものが落ちていた。<br />
「そりゃあ田植え休みに作って窓口さ置いだ「さなぶり団子」じゃ。それが転がり落ぢだんじゃろ」と宿家の老人が笑った。<br />
団子は萱草に刺しごとに窓ごとに置く。<br />
――ほう、窓を塞ぐ餅の風習は正月と一緒じゃのう。<br />
　と真澄は思考を巡らす。<br />
さなぶりは漢字で書くと｢早苗饗｣であり、早苗（さなえ）のふるまいが変化して「さなぶり」となったようだ。<br />
全国には様々なかたちで、この「さなぶり」行事がある。<br />
飯田下伊那地方の「さなぶり」は、おおよそ、こんなやりかただ。<br />
まず稲苗を二束、枯れたススキを実った稲に見立て、田んぼの水口に供える。次に家の神棚へ御神酒と稲苗を供え「無事、田植えが終わりました。豊作をお願いします」とかしわ手を打つ。<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/88aac859946c592cd8a955a8b759e124.jpg" rel="lightbox[1999]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/88aac859946c592cd8a955a8b759e124-300x234.jpg" alt="飯島町本郷のおさなぶり" width="300" height="234" class="alignnone size-medium wp-image-2000" /></a><br />
そして「おさなぶり」の料理。「ぼたもち」と魚（身欠けニシンか鯉の甘煮）がその主役だ。<br />
昔の人たちに聞くと、おさなぶりは皆が集まって宴会だったそうだ。<br />
田植えや稲刈りなど集中して人手のいる作業は、農家の人たちが共同作業でお互いにやりあう。これを「結い」（ゆい）と言う。<br />
飯田の語源は「結いの田」から変化したとも言われており、今でも集落で手を貸し合っているところがたくさんある。沖縄のユイマールも同じ意味だ。<br />
昔、田植えは集落の人々が支えあう大イベント。<br />
「あすこの田んぼはどうの。まだ、あの家は「おさなぶり」じゃあねえ」とか、酒を飲みながらワイワイと一晩を過ごした。<br />
ゆえに手伝ってくれた人々を労う饗応のことを「早苗饗」と言い、豊作を祈願する行事にともなう「ハレ食」なのだ。<br />
<strong>●津軽の虫送り</strong><br />
津軽地方では「さなぶり」の期間中に、害虫駆除と豊作祈願として「ムシオクリ」あるいは「ムシマツリ」と称する行事が行われる。<br />
「ムシ」と呼ぶ巨大な蛇を製作し、笛や太鼓などで賑やかに囃しながら集落内を練り歩き、最後に集落の境にムシを安置する。<br />
ねぶた祭りに匹敵する行事だが、県外の人にはあまり知られていない。<br />
そのため県外の人が集落の境に掛けられた「龍」か「蛇」のようなムシを見てビックリだ。<br />
<div id="attachment_2001" style="width: 310px" class="wp-caption alignnone"><a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/P9220011.jpg" rel="lightbox[1999]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/P9220011-300x238.jpg" alt="OLYMPUS DIGITAL CAMERA" width="300" height="238" class="size-medium wp-image-2001" /></a><p class="wp-caption-text">OLYMPUS DIGITAL CAMERA</p></div><br />
　この風習とは違うパターンが今別町の「荒馬祭り」である。<br />
　虫送りの行事の中で、「ラッセーラー　ラッセーラー」というかけ声と賑やかな太鼓と笛と手平鉦のお囃子に乗せ「ねぶた」が巡行される。<br />
特徴的なことは「荒馬(あらま)踊り」だ。<br />
荒馬は天正13年(1585)頃、大浦(のちの津軽)為信が津軽を統一してとき、藩経済を保つため、馬と農耕と結びつけ五穀豊穣を願ったことが由来らしい。<br />
働き者の馬（男）が大地を踏みしめ、馬の手綱を取る女性たちが軽快に跳ねる。<br />
男女が対になって踊る珍しい形であり、神送りの行事でもある。<br />
<div id="attachment_2005" style="width: 245px" class="wp-caption alignnone"><a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/DSC_1450.jpg" rel="lightbox[1999]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/DSC_1450-235x300.jpg" alt="DSC_1450" width="235" height="300" class="size-medium wp-image-2005" /></a><p class="wp-caption-text">DSC_1450</p></div><br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/51fa8c9a4e8fb050c5183571670734d3.jpg" rel="lightbox[1999]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/51fa8c9a4e8fb050c5183571670734d3-300x200.jpg" alt="大川荒馬" width="300" height="200" class="alignnone size-medium wp-image-2002" /></a></p>
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		<title>津軽の虫送り</title>
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		<comments>http://tiiki-saisei.jp/1993/#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 03 Oct 2024 04:54:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[菅江真澄考]]></category>

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		<description><![CDATA[むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす　芭蕉 　歳時記では「中秋の季語」とされる「虫送り」は7～8月に行われる。 　今年のような猛暑続きでは、どう考えても夏だ。 　この句は虫送りとも関係はないとも、いろいろな解釈があるよ [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p><strong>むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす</strong>　芭蕉<br />
　歳時記では「中秋の季語」とされる「虫送り」は7～8月に行われる。<br />
　今年のような猛暑続きでは、どう考えても夏だ。<br />
　この句は虫送りとも関係はないとも、いろいろな解釈があるようだ。<br />
　芭蕉は元禄2年(1689)3月末に旅立ち、約150日間で東北・北陸を巡り、元禄4年(1691)に江戸に帰った。<br />
　真澄は「外浜奇勝」で、寛政8年(1796)6月と7月に虫送りの様子を記述している。<br />
　つまり芭蕉が奥の細道で訪れた当時は、虫送り行事はまだ東北で定着していなかったが、真澄が東北に入った100年後には定着しており、その間に定着するだけでなく、独自の形態ができあがり文化に昇華していったわけだ。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/5f89a82ad03870bfbb752d35da402ee2.jpg" rel="lightbox[1993]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/5f89a82ad03870bfbb752d35da402ee2-300x201.jpg" alt="江戸時代の虫送り" width="300" height="201" class="alignnone size-medium wp-image-1994" /></a><br />
<strong>●虫送りの行事</strong><br />
　稲作が始まった縄文後期？から悩まされた害であり、稲作の伝播と共に何らかの呪術的な祭祀が存在したと推測するが、現在各地に残る虫送りの行事は、元禄以後に東北まで拡大したことが分かる。<br />
　全国に残る虫送りの行事の基本形は、五穀豊穣を祈願し、稲の病害虫を払う行事で、害虫(ウンカ)駆除や「いもち病」の予防が主な行事の目的となっている。<br />
　その虫送りは西日本を中心に、稲に怨念を持った源実盛(みなもとのさねとも)が害虫となり、災いを為しているという伝承の行事となっている。<br />
　平氏の源実盛はなぜ、稲に恨みがあるか。実は次の伝説がある。　<br />
　斎藤別当実盛は石川県加賀市篠原で、源義仲の軍と戦った。その戦いのさなか、乗っていた馬が田の稲株につまずいて倒れたところを義仲の兵に討ち取られた。<br />
　その恨みは稲に向かった。稲につく害虫と化した実盛は稲を食い荒らすようになったそうだ。<br />
　少々八つ当たり感がある怨霊である。<br />
　そこからウンカ(稲虫)は「実盛虫」に転化した。西日本ではこの実盛の怨霊を鎮める神事としてサネモリと名付けられた虫送り行事が農村に拡がった。<br />
　サネモリの伝承は愛知県東限とされるが、東北にも藁人形の風習は残っている。藁人形の大小はあるが、実盛と思われる顔が描かれている。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/54cc0ec319794d0f5d7a891f4757ec5d.jpg" rel="lightbox[1993]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/54cc0ec319794d0f5d7a891f4757ec5d-225x300.jpg" alt="巨大わら" width="225" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-1995" /></a><br />
 虫送りの呼び名や歩くときに唱える文句は、地域によってバリエーションがあるし、藁人形は無く松明行列だけのところもある。<br />
　三重県熊野市の丸山千枚田では棚田の畦灯りに松明、飯田下伊那地方では「三国」と呼ばれる筒花火が披露される。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/6664edd3bba636282580b89399cd1a5f.jpg" rel="lightbox[1993]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/10/6664edd3bba636282580b89399cd1a5f-300x210.jpg" alt="飯田市今宮神社の「三国」花火" width="300" height="210" class="alignnone size-medium wp-image-1996" /></a><br />
“松明に虫の飛ぶ見ゆ虫送” 正岡子規<br />
※津軽の虫送りと「さなぶり」に続く</p>
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		<title>吉田松陰と津軽半島</title>
		<link>http://tiiki-saisei.jp/1985/</link>
		<comments>http://tiiki-saisei.jp/1985/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 20 Sep 2024 04:58:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[菅江真澄考]]></category>

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		<description><![CDATA[　　“学問をする眼目は、自己を磨き自己を確立することにある”松蔭 　精力的に日本各地を旅し、外国船に密航した吉田寅二郎(のちの松陰)は、安政6(1859)年10月27日に伝馬町牢で斬首された。享年30歳であった。 　嘉永 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>　　<strong>“学問をする眼目は、自己を磨き自己を確立することにある”</strong>松蔭<br />
　精力的に日本各地を旅し、外国船に密航した吉田寅二郎(のちの松陰)は、安政6(1859)年10月27日に伝馬町牢で斬首された。享年30歳であった。<br />
　嘉永4年(1851)の旧暦12月、松蔭は北方の海に西欧列強の船が出没することを知り自分の目で確かめたいと、宮部鼎蔵(元治元年に池田屋騒動で新撰組に襲われて自刄)と共に江戸藩邸を無断で出奔し東北へ向かった。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/79fedab7b7cb3c3dd2ed83bb8b6fbcd3.jpeg" rel="lightbox[1985]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/79fedab7b7cb3c3dd2ed83bb8b6fbcd3-268x300.jpeg" alt="吉田松陰" width="268" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-1987" /></a><br />
　日本近海は以前から、米国などの鯨を捕る船団などが水や食糧の補充で頻繁に訪れており、釜野沢稲荷には船絵馬に混じり、異人の姿が描かれた絵馬が奉納されている。<div id="attachment_1986" style="width: 310px" class="wp-caption alignnone"><a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/5785f1d01ed979e2ad2568713af7da07.jpg" rel="lightbox[1985]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/5785f1d01ed979e2ad2568713af7da07-300x206.jpg" alt="OLYMPUS DIGITAL CAMERA" width="300" height="206" class="size-medium wp-image-1986" /></a><p class="wp-caption-text">OLYMPUS DIGITAL CAMERA</p></div><br />
　それが漁船でなく軍艦がうろつき始めたのが嘉永年間であり、松蔭はこうした状況を知り日本の海防の現状を視察しようとしたわけだ。<br />
　約4ヶ月、140日間に及ぶ視察を記録した『東北遊日記』が今も残されている。<br />
<div id="attachment_1989" style="width: 242px" class="wp-caption alignnone"><a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/dbec3cb0278595800bd5eef3c2d8a35f.jpg" rel="lightbox[1985]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/dbec3cb0278595800bd5eef3c2d8a35f-232x300.jpg" alt="OLYMPUS DIGITAL CAMERA" width="232" height="300" class="size-medium wp-image-1989" /></a><p class="wp-caption-text">OLYMPUS DIGITAL CAMERA</p></div><br />
　手形も持たず、ろくな交通手段が無かった時代、真冬に津軽半島まで出かける行動力は凄いものがあるが、真澄はその60数年前に遡る天明8(1788)年に、松前に渡航しており、真澄の行動はさらに破天荒極まりないと言える。<br />
　真澄と松蔭の共通点は、知識ではなく熱い志だろう。<br />
　嘉永5(1852)年、2人は小泊から海岸沿いに北上し途中から山道に入った。<br />
　当時の津軽藩は旅人がこの道を通ることを禁じており、もちろんまともな道は存在しない。<br />
　雪深い山谷を何度も超えてようやく算用師峠を経て三厩の海岸に出た。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/a012de3fe381ff0aa70f16d43ccd4ca3.jpg" rel="lightbox[1985]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/a012de3fe381ff0aa70f16d43ccd4ca3-300x192.jpg" alt="津軽図" width="300" height="192" class="alignnone size-medium wp-image-1988" /></a><br />
　津軽の海岸線は50里(一里約4kmで200ｋｍか)で、小泊や竜飛など9カ所に砲台を設置、三厩と平舘には守備隊も置いていた。<br />
　袰月(ほろづき)に宿をとった松陰は、津軽海峡を外国船が堂々と往来しており、数日前も1泊して立ち去ったと聞き、日本が清国のように侵犯されると怒った。<br />
　翌日、松陰は警備の検分と称して平舘台場を視察した。<br />
「大砲が７個あるが普段は備えていないが、下北半島とわずか3里の海を隔てたこの要衝の地に砲台があるのは すこぶる良いと日記に書き残している。<br />
　外ヶ浜町の「平舘台場」は、弘化4(1847)年に平舘に異国船が現れ、乗組員が上陸したことをうけ、弘前藩が嘉永2(1849)年に慌てて設置した砲台である。<br />
　現在、青森県指定文化財となっている「平舘台場跡」は高さ2.3mの扇型の土塁に囲まれ、7つの砲台跡が残っている。<br />
<div id="attachment_1990" style="width: 310px" class="wp-caption alignnone"><a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/5cee3cbf7c4ac5465b7bf3fdf67b2bfe.jpg" rel="lightbox[1985]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/5cee3cbf7c4ac5465b7bf3fdf67b2bfe-300x200.jpg" alt="OLYMPUS DIGITAL CAMERA" width="300" height="200" class="size-medium wp-image-1990" /></a><p class="wp-caption-text">OLYMPUS DIGITAL CAMERA</p></div><br />
　話によれば外国船に砲撃を加えたが、まったく届かなかったとか。<br />
<strong>■これ事例あるの？</strong><br />
　松蔭は長州砲(嘉永年間に鋳造された青銅製のカノン砲18ポンド砲)など役に立たないと感じたに違いない。（当時の諸外国の船は鉄製アームストロング砲で、前近代的なカノン砲ではまったく歯が立たなかった）<br />
　清国が敗れたアヘン戦争を肌で理解し、国内の海防事情がいかに脆弱かを悟ったのである。<br />
　長州藩は文久3年(1863年)5月、馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えたものの、半月後の6月、報復としてアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し壊滅的打撃を与えた。<br />
　23歳の若者が身命を賭して東北を視察し、長州藩幕閣に進言していたはずだが、その言を受け入れなかったのだろう。<br />
　後の嘉永6(1853)年には浦賀沖にペリーが率いる4隻の艦船が現れ、江戸幕府が大混乱する黒船来航として歴史に残った。<br />
　余所はどうしてる？とか、とにかく優良事例を聞きたがる方がいる。<br />
　事例を聞くのは良いが参考程度にしかならない。<br />
　かつ耳学問で自ら現場も見聞しないのは論外だ。<br />
　もちろん二番煎じは本家を越える事など皆無である。<br />
　真澄はあらゆる書物を読み記憶していたが、とにかく自らの耳目で現場の実態を確認し記録していた。<br />
　松蔭は見聞してその身に体感することでこそ、自分の学問・知識を深める事ができると言っている。<br />
　初めてのことはリスクがあり、自分は責任を取りたくない。<br />
　失敗はしたくないではイノベーションなど起きるはずもない。<br />
　松陰が処刑される10ヶ月前に書かれた詩に、次のような一節がある。<br />
<strong>”人事通塞あり、天道豈に敢へて疑はんや”</strong><br />
　人の為すことはうまくいったり、いかなかったりするが、自分は決して天道を疑ったりはしないと言う意味だ。<br />
　昨今はリスキリングと言う言葉に頻繁に出会う。<br />
　24時間働けますか！と煽ることはあっても、人間としての教育は現在、ますます不足している。<br />
　相変わらず人材力の向上に力を入れず、政治経済の経営層に都合の良い歯車を生産しているばかりだ。<br />
　実際に今の様々な現場が衰退したのは政治や企業トップの無為無策が要因だが、これからは実学をおざなりにせず、もう一度ゼロから現場力を「鍛え直す」必要がある。<br />
　リスキリングは単に労働力移動を促すものとするのではなく、未来に本当に不可欠な人材を創出する方向に動いてほしいものだ。</p>
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		<title>津軽の菅江真澄2－真澄、弘前藩採薬御用になる</title>
		<link>http://tiiki-saisei.jp/1980/</link>
		<comments>http://tiiki-saisei.jp/1980/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 15 Sep 2024 03:49:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[菅江真澄考]]></category>

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		<description><![CDATA[　　河童の妙薬伝説は全国にみられる。 　　河童が人間や馬に悪戯をした後に捕まって懲らしめられ、詫びの印として薬を渡したり、調薬の方法を教えた。 　　薬の種類には、骨接ぎ、打ち身、熱傷に効く薬などが多い。 　　河童は相撲好 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>　　河童の妙薬伝説は全国にみられる。<br />
　　河童が人間や馬に悪戯をした後に捕まって懲らしめられ、詫びの印として薬を渡したり、調薬の方法を教えた。<br />
　　薬の種類には、骨接ぎ、打ち身、熱傷に効く薬などが多い。<br />
　　河童は相撲好きで、怪我が多いためにこうした薬を持っていると考えられた。<br />
　　水の妖怪である河童が金属を嫌う性質から、刃物による切創に効果が高いなどともいわれる。<br />
　　岡長平の著書『岡山太平記』に「狸伝膏（ばけものこう）」という話がある。<br />
　　河童の妙薬はこの『宿直草』の時代よりも後に民間に登場している。<br />
　　どうも「たぬき薬」が改変されて河童の伝説が生まれたとも考えられる。<br />
<strong>■弘前藩採薬御用になる</strong><br />
　真澄は東北を歩いた紀行家とか単なる旅人ではない。<br />
　出自では「春星散」という秘薬を伝える薬師の家系とされる。<br />
　真澄自身も尾張藩の藩医・浅井図南から本草学の指導を受けており「薬師」であったのは間違いない。<br />
　後年に「金花香油」という万能の塗り薬を製薬している。<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/ed859b5dd139809d3cc42543ef07f30b.jpg" rel="lightbox[1980]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/ed859b5dd139809d3cc42543ef07f30b-300x121.jpg" alt="真澄の金花香油" width="300" height="121" class="alignnone size-medium wp-image-1981" /></a><br />
　薬の自給自足は藩の防衛と産業振興の要である。<br />
　例えば富山の反魂丹や感応丸、加賀の紫雪、佐賀の疝気一服湯は藩財政を潤す薬だった。<br />
　弘前藩は寛政6年(1794)、他国で製造した売薬禁止令を出し、厳しい統制を図った。<br />
　薬の自給自足をせざるを得なくなった藩医は領内を巡り採薬しなければならない。<br />
　ちょうどその頃に秋田へ向かっていた真澄が弘前に入った。<br />
　他国の者を採用するなど異例であったが、表医の小山内玄貞は本草学に詳しい真澄を呼び止め、藩医の上役に面接してもらった。<br />
　かくて寛政9年真澄は弘前藩の「採薬御用手伝い」に採用されることになる。<br />
　だが弘前藩は７年勤めた真澄の行動を不審に思い、日記や紀行を押収の上、軟禁した。<br />
　どうやら深山を歩いて隠し鉱山などを知りえたことが原因かもしれない。<br />
　真澄は秋田藩に採用されてからも、ほぼ藩内の鉱山を訪ねている。<br />
　もちろん藩が幕府に隠したい鉱山もあっただろう。<br />
　藩の財政を支える重要な鉱山は厳重に管理しており部外者は絶対に坑内には入れなかったはずだ。<br />
　男鹿市の「かんかね洞」は真澄が坑道内の図絵を残している。<br />
　内田武志と宮本常一は「男鹿半島で鉱石を採掘した記録は、まったくない」と述べており、素人の真澄は海の波に浸蝕された洞窟と鉱山を勘違いしたとの結論である。<br />
　しかしこうした行動が菅江真澄は隠密だったという一部の妄想を生むことになった。<br />
<strong>■器用貧乏だった真澄</strong><br />
　天明八年(1788)5月、津軽藩江戸屋敷詰の比良野貞彦が、藩主の津軽信明に随行して津軽入りし、寛政元年3月まで滞在した。<br />
　谷文晁に師事し「外浜人」「嶺雪」と号した比良野は、｢道中記画巻｣「外浜画巻」「奥民図彙」を残しており、もしかしたら真澄と会っているかもしれない。<br />
　もう一人は弘前藩のお抱え絵師、百川学庵（ももかわがくあん）だ。<br />
　百川は幼くして江戸に出て、そこで谷文晁に出会い南画の作風を身につけた。特に比良野の原画を元に25枚の連作「津軽図譜」は江戸後期の津軽地方の景観を描いた傑作と言われている。<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/fc14946a2ba07b05b547f7008de97755.jpg" rel="lightbox[1980]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/fc14946a2ba07b05b547f7008de97755-300x145.jpg" alt="百川" width="300" height="145" class="alignnone size-medium wp-image-1982" /></a><br />
　だが二人とも絵師であり、真澄のように生涯で5000首以上の歌を作った歌人ではない。<br />
　旅先でも歌人たちと交わり、稲作の手順や農民の暮らし、土地に残る昔話や伝説・伝承も採取図絵では「さしこ」や「こぎん」などを詳細に描写している。<br />
　画や和歌、薬師など様々な学びをした真澄。<br />
　いわゆる器用貧乏で、単独で生計を立てるほどの力量はなかったかもしれないが、真澄の生き様を見るには、画と文と和歌のセットが外せない。<br />
　真澄の目は常民の目線を外していなかったため「具体的で客観的で好意的なまなざしが真澄の真骨頂」と柳田國男は言った。</p>
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		<title>津軽の菅江真澄１－じゃんばら注連縄</title>
		<link>http://tiiki-saisei.jp/1975/</link>
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		<pubDate>Wed, 11 Sep 2024 05:36:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[菅江真澄考]]></category>

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		<description><![CDATA[　　　安田村を過ぎると、山路に花が多く見られる。道のかたわらに、 　　　大きな黒い石で、三尺か四尺ばかりの生出岩がたっており、 　　　それのおおいに堂をつくって、これを生出の観音ととなえ、西国 　　　の寺めぐりになぞらえ [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>　　　<strong>安田村を過ぎると、山路に花が多く見られる。道のかたわらに、<br />
　　　大きな黒い石で、三尺か四尺ばかりの生出岩がたっており、<br />
　　　それのおおいに堂をつくって、これを生出の観音ととなえ、西国<br />
　　　の寺めぐりになぞらえて、国札をうつといって、この国の人々が<br />
　　　もっぱら巡拝するところであるという。<br />
　　　やがて細越という、花のたわわに咲いている山里があった(すみかの山より)</strong><br />
<strong>■細越神社のじゃんばら注連縄</strong><br />
　青森市街地からちょっと外れた細越栄山にある「細越神社」を真澄が訪問したときの日記だ。<br />
　由緒書きをみると、慶長年間は大橋村、枝村、中村、細越村、漆新田村、長沢村の６つの集落があった。<br />
　明治の頃、枝村には深山神社、漆新田村に三輪神社があり、それぞれ異なる慣習、祭事を持っており、それが互いの対立意識を煽り、すべてのことに争い事が絶えなかった。<br />
　そして大正５年、地域のほぼ中央の「細越神社」として両神社の祭神の鎮座を仰ぐに至った。とある。<br />
　つまり真澄が詣でたのは細越に鎮座していた「生出観音」であって、明治の神仏分離で三輪神社になり、大正時代に大字の細越の地名を入れた「細越神社」になっているのである。<br />
　筆者は真澄の足跡を探り歩いていたときに<br />
　この神社に至り「なんだこれは！と驚いた。<br />
　摩訶不思議な注連縄が鳥居に飾られていたからだ。<br />
<div id="attachment_1977" style="width: 310px" class="wp-caption alignnone"><a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/5ad6184a6eb6b4d566e6695481e55636.jpg" rel="lightbox[1975]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/5ad6184a6eb6b4d566e6695481e55636-300x250.jpg" alt="OLYMPUS DIGITAL CAMERA" width="300" height="250" class="size-medium wp-image-1977" /></a><p class="wp-caption-text">OLYMPUS DIGITAL CAMERA</p></div><br />
　調べてみるとこの注連縄は正月のみに飾られる。<br />
　つまり正月に歩かないと見られない希有な注連縄を発見したわけである。<br />
　この注連縄は「じゃんばら注連縄」というらしい。<br />
　俵型の飾りを一番上に、一般的な注連縄が三段、その下に、繊細で見事な「七宝つなぎ」の編み込みが暖簾のように垂れ下がっている豪華なものだ。<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/fc8175f6916090cc39144b75a8d3b5d2.png" rel="lightbox[1975]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/fc8175f6916090cc39144b75a8d3b5d2.png" alt="七宝つなぎ" width="224" height="224" class="alignnone size-full wp-image-1976" /></a><br />
　この「七宝つなぎ」は同じ大きさの円が永遠に連鎖し繋がるもので、古来から朝廷や武家が「縁をつなぐ」おめでたい柄として使用されていた。<br />
　読者の皆様も、一度は見たことがある着物の柄「七宝型」は「有職文」と言われる高い格式の文様である。<br />
「じゃんばら」は「邪払」が訛ったもので、「邪を払う」意味がある。<br />
　このじゃんばら注連縄が注目されたのは「廣田神社」の注連縄で鳥居と本殿で飾られているが、実はその注連縄は、ここ「細越神社大年縄（おおとしな）保存会」が奉納している。<br />
　細越神社の大年縄も長らく途絶えていたそうだが、昭和58年に当時厄年を迎える42歳になる人々の発案で大年縄奉納が復興したという。<br />
　現在、国内の大切な文化や祭事が担い手不足で、継承できない事態に陥っている。<br />
　全国でも稀なこうした注連縄が津軽には残っているのは嬉しいものだ。</p>
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		<title>童子村(平内町)の菅江真澄-童子村の正月</title>
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		<pubDate>Tue, 10 Sep 2024 04:49:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[菅江真澄考]]></category>

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		<description><![CDATA[この時代は、朔日（ついたち）に山のご来光を拝む行事はなかった。 　　引ノ越山は童子村の信仰の山で、旱魃の時には山に籠もり雨乞なども行われていた。 　　昭和32（1957）年から数年間は参詣も行われていたそうだ。 　　真澄 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>   この時代は、朔日（ついたち）に山のご来光を拝む行事はなかった。<br />
　　引ノ越山は童子村の信仰の山で、旱魃の時には山に籠もり雨乞なども行われていた。<br />
　　昭和32（1957）年から数年間は参詣も行われていたそうだ。<br />
　　真澄は弘前で、旧暦8月15日に笛太鼓を鳴らしながら「懺悔、懺悔」(さいぎさいぎ)と唱えて過ぎていく人々を、見ている。<br />
　　盆行事はあったのだろう。<br />
<strong>■童子村の正月</strong><br />
“はやくも暮れようとしている。みちのおく津軽路に、雪中の生活を今年も送って、ここは平内のほとり童子という山里の比岐乃己志が獄の麓である。除夜になると旅の宿屋もむさくるしい窓の戸をさし閉ざし、家族みんながそろうのを待って、大臼、小臼を屋内の庭の隅にふせ、すびと(*1)の木尻と言うところには親鍋、小鍋をふせて、やがて家の人はすっかり寝静まってしまった”《津軽のつと》<br />
　寛政10年（1798）、真澄は童子村で年越しをしていた。<br />
　残されている図絵を見ると冬の童子村と引ノ越山らしく、滞在中に描いたと思われる。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/ff51c126c56e2b7ee9d5fbd5e7fbb85c.jpg" rel="lightbox[1972]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/ff51c126c56e2b7ee9d5fbd5e7fbb85c-300x206.jpg" alt="童子村付近" width="300" height="206" class="alignnone size-medium wp-image-1973" /></a><br />
　コケコッコー！鶏が新年の朝を告げる。<br />
　――おぉ新年がきたか。<br />
　真澄が支度を調えていると、精進潔斎したとしみの男(*2)がむしろを敷替えている。<br />
　家の者が全員起きた頃、大勢の村人が大雪を踏みつつ、歌をうたいながらやってくる。<br />
「何事じゃ？」と家人に問う。<br />
「こぃは朝はえぐ明げ星いだだいで、春木かぐるだめに奥山さ入り、めいめいが斧するす立木にうぢづげ、帰ってぎだどころじゃ」<br />
　と教えてくれた。<br />
　明けて二日、結婚してから3年間は親元に行く習慣がある。<br />
「さなだ(*3)」を着た初婿や晴れ着を着た初嫁のあとを樽を背負った孫八(*4)が、鏡餅や進物の鮏・鱈を重そうに持ち、夫婦を追っていく姿がたくさん見られた。<br />
　こうした夫婦が訪れる家はどこも賑やかで春めいた心地がする。<br />
　常居（居間）の横座（上座）には、おっこ（老翁）が座り、えて（亭主）、あっぱ（女房）、おじ（弟）、おば（妹）、よて（末っ子）が居並び、去年から仕込んでいたどぶろくを酌み交わす。　　<br />
　肴はたつ（鱈白子）、かどのこ（かずのこ）、たらこ、なますが大皿に盛られている。<br />
　飲むほどに歌も出て、八十の翁も“樽しょいのまごはつ(*4)が～”と歌う。<br />
　三日、朝早くから婿嫁が蒲のはぎまき（はばき）、えび葛のはぎ巻き帰るまかないだち（支度）をしていた。<br />
　昔は七夜泊まって、舅の家の寒飯（ひやめし）の湯づけを食べてからでないと戻ることはなかったが、100年前から変わったという。<br />
　四、五日は近隣の者が古びた羽袴を昔風に着て新年の挨拶にやってくる。<br />
　真澄が記した昔風に着るとはどのようなものかは不明である。<br />
　訪問者が古ぼけた扇を半分開き、酒代わりに一包み銭を出すと、家主は頭を下げて濁酒を勧める。<br />
　挨拶に来た者は<br />
「わっきゃ、あぢごぢで十分頂戴すて、もうがっぱじゃが」<br />
　と言いながらも盃を幾度も傾け、そのうちに山歌を高い声で歌い出した。<br />
“下山で鉈で船うつ桂船、海さ降ろして黄金積む、綾や錦の帆を揚げて、これの座敷へ乗り込んだ。これの亭主は果報な人”<br />
　なおこの辺りでは七草粥の行事は全くないと真澄は記している。<br />
(*1) すびと：囲炉裏<br />
(*2) としみの男：正月や節分行事をいっさい行う年男<br />
(*3)「さなだ」:紺の粗末な短衣で肩に様々な刺し縫いの刺繍が施されている<br />
(*4)まごはつ：孫八は下男のこと</p>
]]></content:encoded>
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		<title>童子村(平内町)の菅江真澄1－奇異な姿の引ノ越山</title>
		<link>http://tiiki-saisei.jp/1955/</link>
		<comments>http://tiiki-saisei.jp/1955/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 08 Sep 2024 23:23:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[菅江真澄考]]></category>

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		<description><![CDATA[　　“比岐之己志が嶽のそびえたる三角がたけの、不二の俤に霞み”（津軽の奥） 　　真澄の文章の特徴に目の前に人が現れ、ひとしきり話をすると去って行くパターンが多い。 　　これは夢幻能の基本形に近く、真澄は意識して活用したか [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>　　<strong>“比岐之己志が嶽のそびえたる三角がたけの、不二の俤に霞み”</strong>（津軽の奥）<br />
　　真澄の文章の特徴に目の前に人が現れ、ひとしきり話をすると去って行くパターンが多い。<br />
　　これは夢幻能の基本形に近く、真澄は意識して活用したかもしれない。<br />
　　もう一つの特徴は、目の前の情景や出来事に古今和歌集ほか古歌や各地の伝説を想起させる言葉が編まれていることだ。<br />
　　真澄の頭の中には古い和歌の辞書が存在していたのだろう。<br />
　　それにしても初見でそれらを結びつけて書き留めている点は天才肌と言えるかもしれない。<br />
<strong>■内童子と外童子</strong><br />
　江戸時代に童子村と称したのは内童子村であり、東の外童子村に対して童子村は内を付けて分けていたのが始まりであろう。<br />
　真澄が滞在していたのは内童子であったと思われる。<br />
　現在も内と外の二つの童子地区がある。<br />
　外童子村は、弘前藩と黒石藩の二藩の間を行ったり来たりしていたが、内童子村は一貫して黒石藩領であったようだ。<br />
　市立弘前図書館が所蔵している「黒石平内巳年郷帳」によれば、童子村は稲作中心であった一方で、外童子村は薪や山菜やキノコなどを産出し林業中心の経済だったようである。<br />
　両村の同年度のデータは無いため、一概に比較できないが内童子村が田132石に対し、外童子村は61石との記録が残っている。<br />
　さて童子と言えば酒呑童子を大将とする童子四天王が頭に浮かぶ。<br />
　だが真澄はそうした話を一切引いていない。真澄が酒呑童子伝説を知らないはずがないのでこれは非常に珍しいことだ。<br />
<strong>■奇異な姿の引ノ越山</strong><br />
　寛政10年（1798）、真澄は童子村で年越しをしていた。真澄が絵にした「引ノ越山」は、周りの山々と違い山頂まで尖った円錐形の山である。<br />
　<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/98a17954d9c38d7ccb8ea1c5db78e82b.jpg" rel="lightbox[1955]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/98a17954d9c38d7ccb8ea1c5db78e82b-216x300.jpg" alt="真澄が描いた冬の引ノ越山" width="216" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-1956" /></a>滋賀と岐阜の県境にある伊吹山は引ノ越山に似ており伊吹童子の伝説も残る。<br />
　この伊吹山で真澄が採薬をしていた頃は「白井超」あるいは「秀超」と名乗っていたらしい。<br />
　名前をコロコロと変えた有名人に葛飾北斎がいるが、真澄もよく名前を変える人物であった。<br />
　それにしても引ノ越山を見て、富士山とは言っているものの、採薬で赴いた伊吹山に一言も触れていないのは不思議である。<br />
　単一山では近江富士と呼ばれる三上山や讃岐富士と呼ばれる飯野山、奈良県の鎧山がよく似ているが、平内町の貴重な山である。<br />
　引ノ越山の山の表面は昔から部分的に安山岩が露出しており、岩山であることは多くの人が知っていたようだ。<br />
　安山岩は固くて水分吸収率が線路の敷石に適している。<br />
　これに目を付けた地元の採掘業者は主に国鉄（現ＪＲ）への敷石供給やコンクリート材として採掘を始めた。<br />
　当時は採石の採掘方法にルールがなかったため、西斜面を三方から次々と崩していき現在の姿になった。<br />
　だが緑化復元の義務を負っていた業者はその後、負債を抱え倒産。<br />
　結局山は当時のまま放置されてしまった。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/cef42defbe5418a04475b300291834c9.jpg" rel="lightbox[1955]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/cef42defbe5418a04475b300291834c9-280x300.jpg" alt="採掘後植栽されない引ノ越山" width="280" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-1957" /></a><br />
　採掘で姿が変わってしまった山に前述した伊吹山や秩父市のシンボル武甲山がある。<br />
　いずれも植栽して復旧を試みているものの採掘をしたため昔の姿とは言えない。<br />
　童子地区のシンボルである山が片側半分を削られ、今の無残な姿になっていくことに抵抗はなかったのだろうか。<br />
　山頂から東側の所有者である役場は、漁師が「山目をにらむ」大事な山だとして、採掘業者に売らなかった。<br />
「山目をにらむ」とは、夏泊と津軽半島の山の峰を肉眼でにらみ、定置網を設置することだ。<br />
　もはや漁師全員を人間国宝にしたい技持ちである。<br />
　この引ノ越山の山頂部を残せたことは町の大功績であろう。<br />
(*1)「山目をにらむ」：漁民が網を立てるときの目印にしていること</p>
]]></content:encoded>
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		<title>夏泊半島の菅江真澄16－真澄浅虫温泉で湯治する</title>
		<link>http://tiiki-saisei.jp/1951/</link>
		<comments>http://tiiki-saisei.jp/1951/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 08 Sep 2024 01:29:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[菅江真澄考]]></category>

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		<description><![CDATA[　ようやく浅虫の湯治場が見えるところまでやってきた。浅虫に入ると荷駄の馬、人が楽々と往来できている。 ――さすが浅虫温泉じゃ、よぐ賑わっておる 「浅虫は黶虫でしゃべって痣のある蛇住んであったはんでどが、湯船で麻蒸すたはん [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>　ようやく浅虫の湯治場が見えるところまでやってきた。浅虫に入ると荷駄の馬、人が楽々と往来できている。<br />
――さすが浅虫温泉じゃ、よぐ賑わっておる<br />
「浅虫は黶虫でしゃべって痣のある蛇住んであったはんでどが、湯船で麻蒸すたはんでどのしゃべり伝えがあるが、なんだもんだら」<br />
　と湯治場にいた地元のものが言う。<br />
　煮坪と呼ばれる高温の源泉が湧出していて、育てた麻を夏に収穫し、それを煮坪に浸すと短い間に蒸しあがったようだ。どうやら普通に考えれば「麻蒸」が地名の元だろう。「浅虫」に改めたのは何度も火災が起きたことを改めるためとの伝承がある。<br />
「ここは湯船はいぐづあるんじゃ」と湯船の数を真澄は問う。<br />
「そりゃあ数ある温泉地ある中で、こごは一番湯船がありますじゃ」と自慢げに答えた。<br />
　浅虫温泉は平安時代の貞観18年（876）に、慈覚大師円仁が発見したとされる。<br />
　当時は麻を蒸すことにのみ温泉が使われていたが、建久元年（1190）に法然（浄土宗の開祖）が、この地を訪れて温泉への入浴を奨めたという開湯830年を越える由緒ある温泉郷である。<br />
　真澄はようやく歩みを止め、浅虫温泉で半月ほど滞在し湯あみを愉しんだ。<br />
　この浅虫温泉が全国的に知られるようになるのは明治以降だ。<br />
太宰治や棟方志功など青森の超有名人が、定宿として湯治したことで全国ブランドになったのが大きいと思える。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/8abf285d85a4e79e28efd813e0c44615.jpg" rel="lightbox[1951]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2024/09/8abf285d85a4e79e28efd813e0c44615-300x184.jpg" alt="浅虫温泉付近から陸奥湾を望む" width="300" height="184" class="alignnone size-medium wp-image-1953" /></a></p>
]]></content:encoded>
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