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	<title> &#187; 土着する</title>
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		<title>職員は自治体ファーストで</title>
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		<pubDate>Sat, 13 Sep 2025 01:34:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[土着する]]></category>

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		<description><![CDATA[日本では荘園の農民は土地に縛られ、領主に対して労役や年貢を課せられており、江戸時代に至るまで、農民の移動は厳しく制限されていたのである。 それでも諸藩は新田開発を進めるため、密かに他領の農民を誘致した。 表向きには認めら [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>日本では荘園の農民は土地に縛られ、領主に対して労役や年貢を課せられており、江戸時代に至るまで、農民の移動は厳しく制限されていたのである。<br />
それでも諸藩は新田開発を進めるため、密かに他領の農民を誘致した。<br />
表向きには認められないため、仲介者を介して勧誘が行われ、農具の貸与や年貢の減免、移住費用の補助などが条件として示されたという。<br />
いわば「闇の誘致合戦」が繰り広げられていたのである。<br />
時代は変わり、現代の日本では居住の自由が憲法で保障されている。<br />
だが、市町村職員に限っては、事情が許す限り、自らが勤める自治体に住んでほしいと願う。<br />
給与の原資はその自治体の住民の税金であり、職員は住民の信託を受ける存在だからである。<br />
現実には、合併によって吸収された自治体で、職員が真っ先に中心地へ移住し、旧町村の人口減少を加速させた事例は少なくない。<br />
かつて維持されていた地域の祭りや日常の取り組みが途絶えたのは、職員が地域の担い手であったことの証左である。<br />
自治体職員は「自治体ファースト」「ふるさとファースト」であるべきだ。<br />
住民に寄り添い、地域の生活に根を下ろすことが、行政サービスの信頼を支える。<br />
自治体トップもまた、職員が地元に定住しやすくなるよう、住宅補助や支援制度を検討すべきである。<br />
地方再生は、外部からの移住促進だけでは実現しない。<br />
まずは行政の内側にいる職員自身が地域に根を張り、共に暮らす姿勢を示すことが不可欠である。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2025/09/ba8824e7a59ddbe9bae6816989ce5ade.jpg" rel="lightbox[2193]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2025/09/ba8824e7a59ddbe9bae6816989ce5ade-300x192.jpg" alt="四季農耕図１" width="300" height="192" class="alignnone size-medium wp-image-2194" /></a></p>
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		<title>吉野ヶ里遺跡の王墓は主は誰か</title>
		<link>http://tiiki-saisei.jp/1773/</link>
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		<pubDate>Fri, 09 Jun 2023 08:40:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[土着する]]></category>

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		<description><![CDATA[近頃歴史ファンを釘付けにしている話題は佐賀県の吉野ヶ里遺跡で発掘された「石棺墓」だ。 時代は弥生時代後期で、邪馬台国があったとされる時代だからだ。 昔から邪馬台国は九州説と畿内説で二分される論争があるものの、確たる証拠も [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>近頃歴史ファンを釘付けにしている話題は佐賀県の吉野ヶ里遺跡で発掘された「石棺墓」だ。<br />
時代は弥生時代後期で、邪馬台国があったとされる時代だからだ。<br />
昔から邪馬台国は九州説と畿内説で二分される論争があるものの、確たる証拠もなく今も決着していない。<br />
そこに以前から吉野ヶ里の「謎のエリア」とされてきた西側の最も小高い場所（神社があり未発掘だった）から有力者と見られる墓が発掘され、すわ卑弥呼の墓だ！と盛り上がりだしたのである。<br />
専門家も「かなり身分が高い人の墓の可能性が高く、さらに調べれば歴史的に大きな意味を持つ発掘になる可能性がある」と話しており、『邪馬台国論争』にインパクトを与える発掘につながるため邪馬台国九州説を唱える人たちは勢いづいている。<br />
未盗掘墓には土が入っており骨は期待できないが、鏡や剣などの副葬品が残っていれば相当重要な発見となるだろう。もちろん親魏倭王（しんぎわおう）の金印でも出土すれば、長い論争は決着することになる。もし歯などが残っていてＤＮＡ鑑定ができれば、当然男女の区別は可能となるだろう。<br />
男だった場合はどう考えるか。<br />
私は以前ブログ「土着する・日高見国編―徐福王国(http://tiiki-saisei.jp/1626/)」で、徐福は最初に九州に上陸したと書いた。<br />
中国では「蓬莱」は日本と比定している。<br />
蓬莱国の王はもちろん「徐福」であり、徐福は王となり中国に帰ってこなかったとの伝説も残っている。<br />
となれば強力な武器や馬を持つ徐福が王国を建設するにはたやすい。もしかしたら吉野ヶ里遺跡の石棺墓に眠っているのは徐福かもしれない。男王と断定できればＤＮＡ鑑定は中国の徐福村の住民からサンプル提供を受けることも重要となる。<br />
さてさて石棺墓の主は「卑弥呼」か「徐福」か、それともまったく関係ない豪族か？</p>
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		<title>土着する・民間伝承-ユキヨシ様</title>
		<link>http://tiiki-saisei.jp/1632/</link>
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		<pubDate>Sun, 27 Feb 2022 00:43:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[土着する]]></category>

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		<description><![CDATA[宗良親王の子、尹良親王が松尾村(飯田市松尾)を通る際草履(ワラジ)の紐が切れた。そこで百姓家で一足譲ってくれるよう頼んだが百姓は断ってしまった。尹良親王はしかなく裸足のまま去ったが、浪合で殺されてしまった。その後、松尾村 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>宗良親王の子、尹良親王が松尾村(飯田市松尾)を通る際草履(ワラジ)の紐が切れた。そこで百姓家で一足譲ってくれるよう頼んだが百姓は断ってしまった。尹良親王はしかなく裸足のまま去ったが、浪合で殺されてしまった。その後、松尾村では祟りなのか、足を病む者が絶えなかったため、「みきよし様」と言う社をつくり祀った。<br />
なぜ「みきよし様」としたかは不明だが、松尾の八幡神社の隅に尹良親王神社として祀られており「俺の先祖が悪いことしたばっかりに・・・」とこぼしながら今も農家の末裔とされる人たちがお世話をしている。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/68185b401c36849311285ab360751251.jpg" rel="lightbox[1632]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/68185b401c36849311285ab360751251-285x300.jpg" alt="地元農家で今も祀るユキヨシ親王神社" width="285" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-1633" /></a><br />
「ユキヨシ様」の祟りは足に限っている。具体的に一軒の農家が祟られ代々足を病んでいるとか。<br />
何となく蘇民将来の話と似ているが、コタンのように滅ぼされてはおらず、拒否した農家の末裔が現在もお奉りをしている。<br />
・親王が切腹をした。その時敵方の武士が気の毒に思って介錯をした。その時、親王の血が足についた。以来、この一族のなかで胎児の５人に赤いあざが出来る。また神社の分社を祀るようになった。『伊那』６７３号（伊那史学会）<br />
・親王の祟りがあると言われている。親王は追われて自殺したがその子供は成人するまで隠れていた。出世が目の前にあったが、その行方を阻まれてしまった。その時に多くの者が討死した。祟りの神様・安産の神様と言われる。『伊那』６７３号（伊那史学会）<br />
・古城の下條さまで、尹良親王が入るのを断った。悲しんだ親王はこの石の上で身を横たえしばらく動けなかった。この石には親王の怨念が込められているという。また三河地方にも尹良神社、尹良塚と呼ばれる場所があるらしい。伊那　824号（伊那史学会）<br />
等々が採取されているものの、三遠南信エリア(伊那谷・三河･遠江)にかけてエリア限定のタタリ神であるようだ。<br />
＊＊＊<br />
柳田國男は「東国古道記」の中で「かつて中部山岳地帯と海岸を結び付ける道は秋葉街道だけであったが、やがて浪合を通り飯田･根羽に連なる三州街道（飯田街道）が開けてきて、その段階で津島神社の御師たちが入り込み、土着的な山路の神『ユキヨシ様』を旅人の道中安全を守る守護神（一種の道祖神）へと変化させて山間に広く分布していった。これに加えて、浪合で戦死した南朝某宮に対する御霊信仰の要素が結合して尹良親王なるものが出現し、さらに津島神社や三河武士・徳川氏の起源伝承として存在意義が認められ、地元の口碑がその欲求に合うように内容まで多様に変型させられたのではなかろうか」としているが、軽く触れているのみで民俗学的にも文献は少ない。<br />
柳田の見解では、三州街道が開けると同時に津島神社(愛知県津島)の御師が、信州に入るようになり、その段階で土着のカミである「ユキヨシ様」に旅の安全、交通といった道祖神、サイノカミ的性格を与え、三州街道沿いの山村に分布させた。そこに浪合で戦死した信濃の宮と呼ばれた宗良親王へのオソレが「御霊信仰」として形を成したものがユキヨシ様ではないかと分析しているが、「ユキヨシ様」はそれ以前から土着していた点には触れていない。<br />
その御師は薬売りとしても活動し、全国を巡っているにも係わらず「ユキヨシ様」信仰は他地域に伝わっていない。<br />
まぁ土着神であるゆえ余所へ持ち込めなかったのだろう。<br />
＊＊＊<br />
津島神社の祭神は牛頭天王である。牛頭天王の象徴的なエピソードは蘇民将来だ。御師としてはこんな都合の良い土着神を使わない手はないと思ったのだろう。<br />
菅江真澄も『委寧能中路(いなのなかみち)』の中で、「尹良(ゆきよし)親王」や「良翁権現(浪合神社)」に参詣した思い出を書いている。江戸時代から「尹良親王」のことは知られていたのだ。<br />
尹良親王は「幻の宮」とも言われる謎の親王だ。<br />
尹良の「尹」の通常の読みは｢いん｣であり「ゆき」とは読まない。律令制の弾正台長官あるいは左大臣を指す漢字である。<br />
「尹」を部首とすると「しかばね」となる。これはいきなり不気味な漢字だ。白川静博士は｢尹｣は「呪杖」だと言っているが、この尹に「人偏」を付けると「呪杖」を持つ人「伊」となり、伊那地方を支配する人間となる。<br />
「ゆきよし」の名も尹良以外に行儀・之義・行良・由機良とあり、読みもユキヨシ・タダナガ・タダヨシ・マサナガなどいろいろあり、どれが正しいかもわからない。<br />
「鎌倉大草紙」には南朝の某宮が浪合で戦死した記述があり、飯田市上下久堅を領土としていた知久氏の伝記では、足利直義の落胤「之義(ゆきよし)」が応永3年3月24日に浪合で戦死したと伝えている。戦死した場所は下伊那郡浪合村の峠なのか、尹良親王墓がある浪合神社の延宝から正徳頃までの棟札には、祭神を行義権現と記している。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/46e549631996e9c4cafe790873be07d6.jpg" rel="lightbox[1632]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/46e549631996e9c4cafe790873be07d6.jpg" alt="浪合神社の尹良親王墓" width="220" height="165" class="alignnone size-full wp-image-1634" /></a></p>
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		<title>土着する・日高見国編―徐福王国</title>
		<link>http://tiiki-saisei.jp/1626/</link>
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		<pubDate>Fri, 25 Feb 2022 02:01:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[土着する]]></category>

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		<description><![CDATA[なぜ関東に日高見国と言う縄文王国が存在したか。 ここに入るには太平洋を黒潮に乗って北上するルートしか思い浮かばない。 太平洋を北上したと目される人物で有名なのが「徐福」だ。 司馬遷が著した「史記」に「徐福は斉(せい)の人 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>なぜ関東に日高見国と言う縄文王国が存在したか。<br />
ここに入るには太平洋を黒潮に乗って北上するルートしか思い浮かばない。<br />
太平洋を北上したと目される人物で有名なのが「徐福」だ。<br />
司馬遷が著した「史記」に「徐福は斉(せい)の人なり」と記載されている人物で、徐福村(現在の中国江蘇州かん楡県徐阜村）の発見もあり実在したと見られている。<br />
秦の始皇帝が紀元前219年、始皇帝は東方にあるとされた蓬莱山に、不老不死の仙薬があるので探してこいと徐福に命じた。<br />
総勢3000人の集団を引き連れた徐福は、蓬莱山に向けて中国の山東半島から船出した。<br />
＊＊＊<br />
徐福は目指した蓬莱山が日本にあると思っていたのか？<br />
第一期では九州の有明海から上陸したが、蓬莱山ぽいって山は見当たらず、連れてきた秦国の一部の民を残し探索を続けさせ帰っている。多分火の国阿蘇を目指させたのだろう。阿蘇山なら神仙の山として申し分ない。秦国の民は律儀に探し続けたことで九州各地に伝説が残ったのだろう。そうした点からやはり伝説では無く徐福は日本に到達しており、「秦氏」の祖先となった。<br />
徐福は再び日本を目指す。鹿児島から太平洋側を北上するルートである。<br />
徐福は黒潮に乗り、熊野灘を経て奇岩が各所に点在する紀伊半島で探索した。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/b50f88275426ae009553f7c617590c07.jpg" rel="lightbox[1626]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/b50f88275426ae009553f7c617590c07-300x181.jpg" alt="和歌山県新宮市・徐福公園" width="300" height="181" class="alignnone size-medium wp-image-1627" /></a><br />
新宮市には徐福の墓(徐福公園)がある。また熊野市の矢賀に上陸し、帰国を断念した徐福はここで定住。土木や農耕、捕鯨、医薬、焼き物の技術を伝えたという。後にこの里は秦住となり現在は波田須という地名となった。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/e2e9a382aae9ae9d69e16d7dd3648bc6.jpg" rel="lightbox[1626]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/e2e9a382aae9ae9d69e16d7dd3648bc6-300x169.jpg" alt="波田須の里" width="300" height="169" class="alignnone size-medium wp-image-1628" /></a><br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/22bf2a5c76902e1f87b3320f03454426.jpg" rel="lightbox[1626]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/22bf2a5c76902e1f87b3320f03454426-223x300.jpg" alt="熊野市・秦住の徐福の墓" width="223" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-1629" /></a><br />
だが徐福船団の本隊は北上した。そして海から立派な山を見つけた。霊峰富士山である。<br />
これこそ蓬莱山と徐福は狂喜したに違いない。だがここでも仙人に逢うことなどなかった。<br />
ここで同行した秦の民からは不満が噴出する。彼らは船乗りで無く、かつ男女の子ども達を同行させており、長い船旅で病気も蔓延していただろう。<br />
ここで徐福は決断する。彼らをどこかで下船させ定住させよう。身軽になって蓬莱山探しをしようと考えた。徐福は民をなだめ終の住み処を探す船旅に切り替えたのだ。<br />
そして見つけたのが「葦原の中つ国」だった。<br />
ここに徐福王国を建設した。国名は「日高見国」である。<br />
＊＊＊<br />
景行天皇の時代に、武内宿禰は密偵として東方諸国を見聞させている。もちろん日高見国が主たる探索地域であった。<br />
しかし武内宿禰はなぜか「東の夷(あずまえびす)の中に日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という」と報告をしている。徐福王国であれば、もっと近代的であったろうと想像するが、連れてきた民は狩猟と農耕民中心であったろう。中国の王族ではないなら文化レベルは低い。もし高いレベルであっても未開の地では維持できなかったかもしれない。<br />
だが徐福は馬を連れてきているはずだ。上陸して探索するには馬が必要だったからだ。<br />
そして徐福王国(日高見国)では、その馬を繁殖させていたに違いない。<br />
当時の日本ではまだ馬は僅かしかいなかった。だが宿禰はその報告がしなかった。本当に馬を見なかったのか？<br />
鉄を始め様々な鉱山開発は探っているだろうし、豊富な水で初期の稲作もしていただろう。<br />
妄想だが「山繭」は徐福が中国から持ち込んでいるかもしれない。<br />
飛鳥のヤマト政権には、とても太刀打ちできない豊かな国であり、報告を受けた景行天皇は、どうして手に入れたい国のトップに入った。<br />
もう一つ徐福王国に繋がる面白い報告を宿禰はしている。<br />
それは蝦夷は「短弓」を使うと言う報告だ。<br />
徐福のふるさとは中国の江蘇州である。<br />
項羽と劉邦が覇権争いをし、秦国が成立した時代であり、戦闘では軍馬が活躍していた。<br />
日本は後の源平合戦でも長弓を用いた。<br />
あの那須与一が舟の扇の的を射貫いた逸話でも馬から長弓である。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/38b0e0828c3c7fceeabeb96f0d676ebd.jpg" rel="lightbox[1626]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/38b0e0828c3c7fceeabeb96f0d676ebd-290x300.jpg" alt="那須与一像" width="290" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-1630" /></a><br />
だが大陸の騎馬戦では短弓だ。<br />
これこそ間違いなく中国から渡ってきた民である証明なのだ。<br />
だが日高見国は大した抵抗もせず景行天皇に屈している。徐福の国は争いを好まない部族だったか、纏まった武力すら有していなかったと見る。まるで現在のウクライナのようだ。<br />
徐福伝説はさらに北上して青森の津軽、小泊の権現崎、そして日本海を下り男鹿半島に至る。やはり徐福はひたすら北上したのだ。</p>
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		<title>土着する・日高見国編―日本武尊</title>
		<link>http://tiiki-saisei.jp/1618/</link>
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		<pubDate>Thu, 24 Feb 2022 00:15:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[土着する]]></category>

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		<description><![CDATA[ヤマト連合政権ができた頃、日本には九州、関東、東北にそれぞれ、意思を統一した「国」が存在していた。北海道のアイヌ民族は国の概念は無くそれぞれの部族で暮らしていた。 日本には少なくとも４つの国があったわけだ。 景行天皇は西 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>ヤマト連合政権ができた頃、日本には九州、関東、東北にそれぞれ、意思を統一した「国」が存在していた。北海道のアイヌ民族は国の概念は無くそれぞれの部族で暮らしていた。<br />
日本には少なくとも４つの国があったわけだ。<br />
景行天皇は西に東に飛び回り各地の国を平定していった。<br />
しかしその業績は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に集約されている。<br />
なぜだろう？？<br />
日本武尊は三種の神器の一つである「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を倭姫命(やまとひめのみこと)より渡され、焼津であの草薙剣(くさなぎのつるぎ)神話が生まれた。<br />
東国へ行く途中、今の焼津で騙されて野に入った際に、日本武尊は周囲から火をかけられて炎に囲まれてしまう。この絶体絶命のピンチに天叢雲剣で自分の周囲の草を薙ぎはらい、事なきを得たことで天叢雲剣は「草薙剣」と名前が変わる。<br />
野原で火をかけられたとするが、富士山が活火山だった時代。景行天皇が噴火で足止めされたのが実態ではないだろうか。<br />
三種の神器の１つ「草薙剣」は、日本武尊がなぜか熱田に置いて帰ることになるのだが、景行天皇は尾張氏との関係が相当深かった証拠だ。そして現在も熱田神宮が持っている。<br />
この神話を妄想解釈すれば、日本武尊(尾張族と縁を持つ景行天皇の御子か)と共に日高見国を制圧した尾張(おはり)族が、日高鉱山の権利を手にしたということだろう。政権内でかなりの力を持っていた尾張族は、さらなる権力欲から日高見国が欲しかった。そこで天皇を焚き付けて侵攻を具体化したのだ。<br />
もちろん征服し権利を手中にした尾張氏は当然、手放すことはなかった。ヤマト政権の他の有力豪族は気に入らない。そこで手ぶらで帰ってきた御子を伊吹山で襲った。ヤマトタケルは尾張陣営である伊勢方面に退却。能褒野(現在の亀山市)まで必死に逃げたがここで息絶えた。<br />
<div id="attachment_1620" style="width: 310px" class="wp-caption alignnone"><a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/381e7d3673abfc2cd380eeb53b718044.jpg" rel="lightbox[1618]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/381e7d3673abfc2cd380eeb53b718044-300x225.jpg" alt="亀山市にある日本武尊の墓" width="300" height="225" class="size-medium wp-image-1620" /></a><p class="wp-caption-text">亀山市にある日本武尊の墓</p></div><br />
＊＊＊<br />
さてひとつ疑問を提示しておこう。<br />
ヤマトタケルの魂は白鳥となって大阪府羽曳野市に降り立ったのはなぜか (現在の白鳥の陵)<br />
日本武尊は東征する前に、熊襲討伐で九州に向かっている。これも景行天皇が行っているわけだが、なぜ七年間も九州攻めに出てヤマトを空けているのか？<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/f1eb69ccce867d6363ec114495dbf93c.png" rel="lightbox[1618]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/f1eb69ccce867d6363ec114495dbf93c-193x300.png" alt="神武東征" width="193" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-1619" /></a><br />
確かに九州はヤマト政権からすれば、まつろわぬ国であり、九州の「倭国」であったわけで、九州討伐は問題ない。<br />
しかしそうすると、神武東征が本当に九州からヤマトに来た話なのかと言う疑問に到達する。<br />
神武のふるさとのはずだ。それとも神武は九州から追い出された部族なのか？<br />
しかも九州では長髄彦と戦争をしている。<br />
色々と辻褄があわないのだ。<br />
私はこのシリーズで長髄彦は本州の古部族(出雲、もしくは諏訪の民)が追われて青森にたどり着いたと書いた。決して九州の部族ではないのだ。<br />
記・紀編纂は天部天皇の御代からである。その時期にヤマト政権がどこにあったかで、東西は分かれるわけで、当然、大阪から九州は「西」、奈良から東北にかけては「東」である。<br />
誰かが九州制圧に動いただろうが、それを架空の日本武尊に集合させて書いているのだろう。<br />
少なくとも日本武尊の動きには無理がある。<br />
では神武東征をヤマト出発点としたら、日本武尊の東征は神武東征であることになる。<br />
景行天皇と日本武尊と神武天皇がトリプルブッキングになってしまう。<br />
そこで全部、英雄譚神話を創作し、矛盾を解決するには、九州の日向を出発点にしなくてはならなかったのではないか。<br />
それは九州をふるさととする「氏族」が、神武天皇を初代天皇とした神話として歴史を改変したかったのだろう。その氏族は饒速日命を祖神とする「物部氏」か九州に拠点を持っていた「秦氏」のどちらかだ。<br />
たぶん物部氏の策略とみる。なぜならば記・紀では神武天皇は天照大神を祖先としたからだ。天照大神の孫が饒速日命であるとしていることから、我が物部族こそ大王家と深く繋がる氏族とブランド化を図ったわけだ。<br />
貴種を創り出すための歴史歪曲は、世界の常識かも知れない。<br />
記・紀を正史とするために、それまでの史料を燃やしてしまった大和朝廷。<br />
その歴史改変は明治政府によって、さらに改変を重ねることで真実が隠されてしまった。<br />
余談だが景行天皇は剛強無双の武人だったが、女性に対しての無双ぶりは凄く、片っ端からお手つきにし、８０人の子を為したそうだ。現天皇家の存続問題など何処吹く風だったろう。<br />
当然皇子たちもたくさんいたので、景行天皇は各地へ派遣した物語が集約され1つの神話にしたとすれば各地に飛び歩いた日本武尊の行動もうなずける。</p>
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		<title>土着する・日高見国編―日高見国はどこだ</title>
		<link>http://tiiki-saisei.jp/1604/</link>
		<comments>http://tiiki-saisei.jp/1604/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 20 Feb 2022 23:25:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[土着する]]></category>

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		<description><![CDATA[そろそろ邪馬台国探しをやめて日高見国に力を注ぐ時期ではないかと考える。 大先生方がいつまでも他国の文献に振り回され、終わりの無い論争を繰り返していても先は見えない。 卑弥呼の正体すら定かでなく、邪馬台国が機内か九州か書物 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>そろそろ邪馬台国探しをやめて日高見国に力を注ぐ時期ではないかと考える。<br />
大先生方がいつまでも他国の文献に振り回され、終わりの無い論争を繰り返していても先は見えない。<br />
卑弥呼の正体すら定かでなく、邪馬台国が機内か九州か書物の解釈で、それぞれを支持する識者の論争は永遠に続きそうだ。<br />
専門家なのに私と同じロマン派では、日本の成り立ちは解明できないのではと思う。<br />
もう奈良や大阪などの天皇陵の発掘調査を進めるしか新たな物証は出てこないだろう。<br />
明治からの国民教育で、邪馬台国だけが脚光を浴びるが、記・紀には「日高見国と言う国が東方にある」と記載されている。<br />
そもそも記・紀は時の権力者が編纂させたモノであると普通に考えれば良い。<br />
矛盾があれば、それは恣意的な改変であることを証明なのだ。<br />
判っているだけでも藤原摂家が行った歴史改変は無茶苦茶である。<br />
だが藤原家は全くの偽りの歴史を創作しなったのは日本人らしい。全く無かったことにせず真実を書いているからだ。<br />
だから記・紀の神話は、「実際にあったできごと」と考えて良いだろう。<br />
ゆえに読み替えが効く正しい正史と捉えれば良い。<br />
＊＊＊<br />
イザナギ・イザナミの国産み神話では「大八州国(古事記では大八島国)」は、通説で淡路島・四国・隠岐の島・九州・壱岐・対馬・佐渡で最後が本州であったとされる。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/69e647e8cbbd5ba3ce1480be8c0c4056.jpg" rel="lightbox[1604]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/69e647e8cbbd5ba3ce1480be8c0c4056-258x300.jpg" alt="国産み神話" width="258" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-1605" /></a><br />
見たとおり「西の勢力」が認知できている、勢力圏エリアであると判るだろう。<br />
つまり自分たちの国は、今の新潟県や長野県、愛知県より西にあることを示唆しているのだ。<br />
ほぼフォッサマグナで分断された世界であったのである。<br />
記・紀は西日本の豪族勢力の話である。そのように断定すれば、日本建国が判りやすくなる。<br />
簡単な話、当時はまだ現在の統一日本では無かったのである。<br />
とは言うものの、それより東を知らなかったわけではない。むしろ憧れの「日出る国」が東方にあるとしていた。<br />
＊＊＊<br />
「大八州国(おおやしまのくに)」は「国」と記述があるように、１つの統一した意思がある勢力でかつ、記・紀で外せない「国」だったのだ。<br />
私はその国こそ「葦原の中つ国」であり、「高天原」であったのではないかと推理する。<br />
また大八州国は「州」を当てている。単純に１つの国（しゅう）と見るのではなく、「州」を「す」と読めば、中州（すか）であり葦の湿地帯となる。現在の横須賀や明日香、あるいは宿毛(すくも)等は湿地帯であったのである。<br />
ヤマトで近いところを考えるなら、当然「明日香村」である。<br />
だが、それでは国産みで大風呂敷を拡げた意味が無い。<br />
ならば「どこにあった国なのか？」<br />
そしてさらに、「葦原の中つ国」はどこを指しているのか？<br />
「葦原の中つ国」は大河川が造り出した８つの中州と考えてはどうだろう。<br />
そこで国内の大河川がどこにあるか？<br />
現在、日本三大河川と呼ばれるのは信濃川、利根川、石狩川だが、昔は群馬から千葉に流下する坂東太郎(利根川)、九州の筑紫平野を流下する筑紫二郎(筑紫川)、四国の高知から徳島に至る四国三郎(吉野川)が三大暴れ川として有名だった。<br />
暴れ川であれば、その川幅も広く、川の流れも変わる。そうすれば大きな中州が出現するだろう。<br />
その中州は間違いなく葦原となる。<br />
筑紫川エリアが「葦原の中つ国」であれば、高天原伝説と近いし邪馬台国九州説の補完ができる。<br />
吉野川下流の徳島県であれば、ヤマトに近い。しかも徳島から香川当たりで邪馬台国四国説もあるのだ。<br />
徳川家康が秀吉により後の江戸に移封されたとき、今の東京はほぼ葦原の湿地地帯であった。<br />
関東平野である東京、埼玉、千葉、そして霞ヶ浦周辺は大葦原地帯であり「葦原の中つ国」としても不思議ではない。<br />
さあ、皆さんも妄想を膨らませてみよう。<br />
謎解きは明日の話だぁ～！</p>
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		<title>土着する・北のまほろば編―呪縛された地「津軽」</title>
		<link>http://tiiki-saisei.jp/1597/</link>
		<comments>http://tiiki-saisei.jp/1597/#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 19 Feb 2022 04:42:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[土着する]]></category>

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		<description><![CDATA[津軽には何か特別の「磁場」があるのだろうか。 作家の五木寛之は英語のジプシーは、ドイツ語で「ツィゴイナー」フランス語で「ツィガン」であり、「ツィガン」がなまり「ツガル(津軽)」になったと若干、ムリムリ感のある解釈の説を述 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>津軽には何か特別の「磁場」があるのだろうか。<br />
作家の五木寛之は英語のジプシーは、ドイツ語で「ツィゴイナー」フランス語で「ツィガン」であり、「ツィガン」がなまり「ツガル(津軽)」になったと若干、ムリムリ感のある解釈の説を述べたそうだ。ジプシーはユーラシア中央から各地に散ったことは間違いない。<br />
そのジプシーがスペインに到達して、あの独特なジプシー音楽からフラメンコ・ギターが生まれ、ツガルに到達したジプシーから津軽三味線が生まれた。だからフラメンコ・ギターと津軽三味線は兄弟なのだと。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/0f77c938a9bbdba4a75add65afd6c560.png" rel="lightbox[1597]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/0f77c938a9bbdba4a75add65afd6c560-300x194.png" alt="高橋竹山" width="300" height="194" class="alignnone size-medium wp-image-1599" /></a><br />
これは非常に面白い説である。やはり専門家の枠に捉えられているとこうした発想は出てこないだろう。<br />
シュメールから製鉄技術を有する民族が、長い旅の果てに西日本で無く津軽に到達し、その末裔だと思われる民族が、三内丸山遺跡にみえる繁栄をしていった。<br />
この頃は世界四大文明が勃興した年代であることを心して欲しい。日本民族は単一民族ではないが、様々なエリアから訪れた民により、派手ではないが日本文明の基礎が東北に作られていたのである。<br />
最初に津軽に到達した外つ国の民族は、次々にやってくる民族と緩やかに混血し、十三湊(十三湖)を中心の大交易時代を築いた安東(安部)一族が勃興した。<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/tosaminato2_4.png" rel="lightbox[1597]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/tosaminato2_4-300x226.png" alt="tosaminato2_4" width="300" height="226" class="alignnone size-medium wp-image-1598" /></a><br />
私がアドバイザーとして入っている鰺ヶ沢でも「杢沢(もくざわ)遺跡」や「土人長根(どじんながね)遺跡」で、製鉄炉跡が発掘されている。杢沢遺跡は古代の製鉄炉で土人長根遺跡は鎌倉期であるらしく安東一族の製鉄炉だった。<br />
＊＊＊<br />
風の音、波の音、吹雪の音、ねぶたの音、民謡の音、津軽三味線・・・。<br />
津軽じょんがら、津軽おはら、津軽よされ、津軽あいや、津軽三下りの津軽五大民謡、津軽民謡は２０００以上ある。これほど多様で多くの音が残る地域はない。<br />
どれも不思議な「ざわめき」を感じる津軽独特の土着したメロディーだ。<br />
太宰治の「富岳百景」は、ロンド形式のリズムで書いている。彼の深層に津軽のリズムが刻み込まれているかのようだ。<br />
「ねぶた(ねぷた)祭」のラッセ・ラの二拍子リズムと飛び跳ねる「ハネト」も国内では特殊である。スイスのチロル地方には、多神を象徴する仮面と仮装で飛び跳ね踊る「ヴァンベラーライテン」という祭がある。仮面は別としてハネトと同じ「飛び跳ねる」行為が重要だ。<br />
そう言えば津軽今別町に伝わる「荒馬(あらま)」祭も男女が元気に飛び跳ねる。江戸時代からの祭とされているが、文献が無いためそれ以上遡れないだけだ。<br />
<div id="attachment_1600" style="width: 214px" class="wp-caption alignnone"><a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/0aac4ff3cb0d810fdce75ac22d1be1f2.jpg" rel="lightbox[1597]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/0aac4ff3cb0d810fdce75ac22d1be1f2-204x300.jpg" alt="DSC_0316" width="204" height="300" class="size-medium wp-image-1600" /></a><p class="wp-caption-text">DSC_0316</p></div><br />
日本の舞は基本的に能に見るように摺り足と回転であり、飛び跳ねる舞は無い。<br />
元気に踊る阿波踊りだって跳ねたりはしない。<br />
日本人の歩き方は欧米人と違う。まぁ近頃は日本も欧米化の流れで飛び跳ねる歩き方かも知れないが・・・。だから雪道で転ぶのかな？<br />
忍者走りなんて日本人の典型的な走りだろうが、日本人の歩き方は相撲の摺り足は別として基本、摺り足なのだ。天皇家の祀り事に神社の神事だって摺り足である。<br />
これは木の実や山菜を採取し、稲を始め様々な栽培をしてきた農耕民族であることの証拠である。<br />
ところが津軽はトルコやユーラシア、モンゴルの民のように、馬に飛び乗るのが得意な一族と同じような動きが染みついていたのである。<br />
ＤＮＡは誠に不思議なものだ。<br />
＊＊＊<br />
津軽のように、これほど多様かつ独特の素晴らしい文化を有する地域は国内に見当たらない。<br />
雪だって七種類もあるじゃないか。<br />
ところが近年、津軽地方は大都市から「言霊」で呪縛された。<br />
この写真を見て欲しい。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/7a615b661a2946714e2b031db210a34b.jpg" rel="lightbox[1597]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/7a615b661a2946714e2b031db210a34b-300x220.jpg" alt="津軽のイメージ" width="300" height="220" class="alignnone size-medium wp-image-1601" /></a><br />
「雪」「海峡」「北国」「北の果て」これが津軽だと既定されてしまったのだ。<br />
このイメージを定着させたのが「演歌」と言う「言霊」である。<br />
残念なことにこのイメージのまま自ら言霊の檻に入ってしまったのだ。<br />
そろそろ世間から入れられた「檻」から呪縛を解き放たないと取り返しが付かない未来がやってくるだろう。<br />
「津軽は足の引っ張り合い、南部は手の引っ張り合い」などと揶揄される。私もそうした場面に遭遇したり見聞きする。<br />
もう足の引っ張り合いをしないで、手を引っ張ってあげる関係になって欲しいと切に願う。</p>
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		<title>土着する―農業と神社の話</title>
		<link>http://tiiki-saisei.jp/1593/</link>
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		<pubDate>Thu, 17 Feb 2022 06:28:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[土着する]]></category>

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		<description><![CDATA[日本人は無宗教かと外国人は言う。だがこれほど寺社が多い国は無い。しかも氏子でも無いのにお参りし賽銭を投げる、菩提寺で無くてもお布施をする。 正月には他の宗教徒であろうと神社にお参りする。無宗教などとんでもない話だ。 諸外 [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>日本人は無宗教かと外国人は言う。だがこれほど寺社が多い国は無い。しかも氏子でも無いのにお参りし賽銭を投げる、菩提寺で無くてもお布施をする。<br />
正月には他の宗教徒であろうと神社にお参りする。無宗教などとんでもない話だ。<br />
諸外国の神は一神教であることが多いので分かりやすいだろうが、日本人は路傍の石から地主神、だけでなく著名な神様詣でとても忙しいのだ。<br />
ちょっとデータを検索してみた。<br />
神社の多い都道府県の1位は新潟県（4711社）だそうだ。<br />
なぜ新潟県は神社が多いのか？<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/08aff6b0d9cd4e0499b91acb5542c459.jpg" rel="lightbox[1593]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/08aff6b0d9cd4e0499b91acb5542c459-300x199.jpg" alt="弥彦神社(新潟県)" width="300" height="199" class="alignnone size-medium wp-image-1594" /></a><br />
新潟県は信心深い人が日本一なんだろうと思ったら、理由があった。<br />
明治時代まで東京都の人口が約130万人に対して、新潟県の人口は約160万人だったのだ。<br />
それは新潟県が日本有数の米どころであり農業従事者がたくさんいたことや北前船の寄港地があったことなどの地理的条件がそろっていたためなのだ。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/90231cb988cd3103614a4a9e1fe43832.jpg" rel="lightbox[1593]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/90231cb988cd3103614a4a9e1fe43832-300x152.jpg" alt="米どころ新潟" width="300" height="152" class="alignnone size-medium wp-image-1595" /></a><br />
人口が増加すれば集落数も増える。農業が盛んであれば当然、豊作祈願をする集落の氏神が欲しくなり、分祀して貰ったり、勧進してきたことで神社ができたのだろう。<br />
海の交易拠点があれば、他国から様々な人が行き交えば、異国の神様も一緒に付いてくる。<br />
新潟県は五穀豊穣や海路安全を担う神々にとって、住みやすく土着化していったのだ。<br />
他県でも農業が盛んであったり、交易や交流が盛んな地域があったはずだが、なぜ少ないのか？<br />
これは神仏習合や廃仏毀釈、神社合祀など時の政権による宗教いじめにより、減らしていったのだろう。<br />
＊＊＊<br />
これは今後の地方の人口問題で大変重要である。<br />
国は地方の経済政策として、さらに国防として国家予算の多くを一次産業に注ぎ込むことが不可欠であることを示している。<br />
どこか一部に流れたり消えてしまう経済対策でなく、農林漁業と地方交通対策に予算を投入すれば、地方は元気になる。一次産業が儲かれば、人は地方に動き人口問題も緩和する。<br />
再生産可能な農林漁業産業が成立すれば、地方は元気になる。<br />
そして大都市部も元気になるのは明白だ。<br />
国の予算テーブルを「ちゃぶ台返し」してくれる政治家が登場してほしいものだ。</p>
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		<item>
		<title>土着する・アラハバキ妄想編―十三湊と安東水軍</title>
		<link>http://tiiki-saisei.jp/1580/</link>
		<comments>http://tiiki-saisei.jp/1580/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 11 Feb 2022 00:47:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[土着する]]></category>

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		<description><![CDATA[『東日外三郡誌』によれば、津軽地方に最初に定住したのがアソベ族とツボケ族が大挙して渡来してきたとする。アソベは安部であり安東一族であるのは確定だろう。 そのアソベやツボケはシュメールから流れてきたと以前に書いたが、ユーラ [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>『東日外三郡誌』によれば、津軽地方に最初に定住したのがアソベ族とツボケ族が大挙して渡来してきたとする。アソベは安部であり安東一族であるのは確定だろう。<br />
そのアソベやツボケはシュメールから流れてきたと以前に書いたが、ユーラシア南部の民と同じDNA分析で明らかになっており、これが日本の縄文人としている。中心は朝鮮半島から九州経由で北上した人々だが、西日本には先に到着した種族がおり、軋轢を避けた人々が日本海を北上し秋田・青森に定着した。<br />
ただし日本人は単一のDNAでなく、かなり多様なミトコンドリアが混じる世界でももっとも多様性を持つ人間である。これは他を殲滅して自分のDNA保存に努めた漢民族とまったく違う。<br />
三内丸山を始め、青森、秋田、岩手の縄文期が争いのない豊かな時代が続いた要因だろう。<br />
縄文人は「稲作」を拒んだという。なぜならば稲作と戦争がセットだったからだ。<br />
縄文人はやはり穏やかに暮らしたい優しい人々だったのである。<br />
だがその後の歴史は諸説が生まれる混沌の時代となる。<br />
＊＊＊<br />
長髄彦(ながすねひこ)と安日彦(あびひこ) 一族がアソベやツボケと緩やかに混血していく中で、秋田から津軽まで日本海沿岸に勢力を伸ばしていった。安日彦が安部一族であり安東氏であると想像できる。<br />
安部氏は盛岡市を拠点とした「安部貞任」を祖とするが「前九年の役」(1052～1062)で戦死。その息子高星丸(たかあきまる)が藤崎に落ち延び、成人の後に安東氏を名乗った。<br />
鎌倉時代になると、安東氏は幕府から「蝦夷管領」に任じられ、蝦夷との交易権を手にした。<br />
平安時代末期に開港した十三湊（青森県五所川原市）が、日本三津七湊(現在の国際拠点港)に数えられ、15世紀後半まで国際貿易港として日本海沿岸の中心都市として、海外との交易を深めたのは安東氏である。<br />
<div id="attachment_1583" style="width: 235px" class="wp-caption alignnone"><a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/c88c68a1a38def7429a4bb4873460c0a.jpg" rel="lightbox[1580]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/c88c68a1a38def7429a4bb4873460c0a-225x300.jpg" alt="OLYMPUS DIGITAL CAMERA" width="225" height="300" class="size-medium wp-image-1583" /></a><p class="wp-caption-text">OLYMPUS DIGITAL CAMERA</p></div><br />
十三湊遺跡はまだ全てが発掘されていないので全容は不明だが、現在の発掘経過では中世の鎌倉期に繁栄を極めたことが分かる。1991年～1993年の調査で、ほぼ完全な町並みが発掘された。その規模は東日本で最大と言われ、西の博多に匹敵する貿易都市だったことが裏付けられた。<br />
安東氏の支配時代はまだ特定されていないが、安東水軍は十三湊を最大限活かして様々な国と交易をしていたのだろう。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/9902b8e68060b7339106e8a553a792f6.jpg" rel="lightbox[1580]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/9902b8e68060b7339106e8a553a792f6-300x210.jpg" alt="環日本海交易図" width="300" height="210" class="alignnone size-medium wp-image-1581" /></a><br />
＊＊＊<br />
文治年間(1185年～1189年)に藤原秀衡の弟(十三藤原氏)が福島城を築いたという。つまり十三湊周辺はこの時期、奥州藤原氏の支配下であったとする。それ故、義経北行で奥州から十三湊へのルートが浮かび上がるのだ。平泉の「黄金」も北海道から安東水軍が運んだものだ。<br />
十三藤原氏と奥州藤原氏が、北海道の利権を独占していたのである。<br />
しかし3代秀直のとき北条義時が十三湊を幕府の直轄地にしようと画策、藤原氏と同族の安東貞季(さだすえ)を津軽半島の蝦夷管領に任命したことで、寛喜元年(1229)両氏は「萩野台の合戦」で激突した。地元の「安東氏」に北畠氏の部下であった「安藤氏」をぶつけたのである。<br />
これが後に「津軽大乱」と呼ばれ、鎌倉幕府の没落の一端となった大事件となってしまった。<br />
幕府は従来通りの蝦夷対策をしただけだ。<br />
専門家諸氏の通説では蝦夷の蜂起と安藤一族の内乱を発端としているが、鎌倉幕府から派遣された「安藤」と名乗るものと「安東氏」は繋がっていないと妄想する。<br />
「内乱ではない」が私の主張だ。これは幕府と安東氏による北海道の権益の奪い合いである。<br />
鎌倉幕府は最終的に、沿岸部は安東氏(安東李長)が治めるとする和議で「津軽大乱」は収拾した。<br />
しかしその後、安東水軍は全国各地に散らばり、安東一族は「安部氏」として残ったが、十三湊は国際貿易港から外れていった。<br />
蝦夷地に進出し、道南の一二館を経営、勢力圏にしたのは別の安藤氏であろう。<br />
これが私の妄想見解である。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/300px-Dounan12.svg_.png" rel="lightbox[1580]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/300px-Dounan12.svg_-300x240.png" alt="300px-Dounan12.svg" width="300" height="240" class="alignnone size-medium wp-image-1582" /></a></p>
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		<title>土着する・アラハバキ妄想編―神vs.神</title>
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		<pubDate>Thu, 10 Feb 2022 00:15:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator><![CDATA[井上]]></dc:creator>
				<category><![CDATA[土着する]]></category>

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		<description><![CDATA[古代では大怨霊の力を借りて相手を攻めることが頻繁に行われた。 前回書いたように呪術は最大の武器であり、防御も最大の盾とした。 今から1300年前に創建された岩手県北上市にある丹内山神社は、土着神である多邇知比古神(たにち [&#8230;]]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>古代では大怨霊の力を借りて相手を攻めることが頻繁に行われた。<br />
前回書いたように呪術は最大の武器であり、防御も最大の盾とした。<br />
今から1300年前に創建された岩手県北上市にある丹内山神社は、土着神である多邇知比古神(たにちひこのかみ)を祀っていた。当時は「大聖寺不動丹内大権現」と称しており、本殿の背後にアラハバキ神の磐座する巨岩が祀られている。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/179782a5f762d56c793aa3e52d0016b2.jpg" rel="lightbox[1574]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/179782a5f762d56c793aa3e52d0016b2-300x224.jpg" alt="丹内山神社の御神体・岩手県花巻市東和町" width="300" height="224" class="alignnone size-medium wp-image-1575" /></a><br />
あろうことか延暦12年(801)、坂上田村麻呂が東夷征伐の際にこの神社に参籠したのである。<br />
これは敵の神を我が陣に取り込み、押し寄せる蝦夷側を恐れさせようとした例である。<br />
アテルイは奥州市水沢当たりに住んでいたので、喉元でアラハバキ神を懐柔させたとの演出だ。<br />
しかし田村麻呂は東夷征伐の後に、この神社を睨む位置に毘沙門天を祀り我が身を守っている。利用したが、よほど怖かったのだろう。<br />
この神社にはどんな干天でも水が乾くことがない手水鉢があり、これは水神である龍神だ。<br />
田村麻呂はアラハバキを蝦夷の神と見ていたようだ。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/b49f39f5f2f15827a20f2d603e39b4a1.gif" rel="lightbox[1574]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/b49f39f5f2f15827a20f2d603e39b4a1-258x300.gif" alt="坂上田村麻呂" width="258" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-1578" /></a><br />
＊＊＊<br />
異族の神を崇めて鎮撫する手法は、朝廷内で学んだ方法であろう。<br />
田村麻呂は自らが信奉した神が、どのような姿をしているか理解している。いわゆる偶像崇拝であった。しかし異界の神は理解できない。もしかしたら日本書紀に登場した「両面宿儺」を想像したかも知れない。これは正直怖い。<br />
そこで正体不明のアラハバキ神には同じ神を対峙させることを考えたのだ。<br />
東北は蝦夷の国と思っていたのか蝦夷神をもって蝦夷を制することが、これより大和朝廷の戦略となっていった。<br />
朝廷は東北から北は全部、蝦夷との見識だったのであろう。<br />
私は北海道のアイヌの民でなく、アホベ族の末裔と見ている。<br />
アラハバキ神は名もない東の神であったが、やがて門客人神として体裁を整えられ、大和朝廷の神杜に摂杜・末杜として組み入れられていったのは、こうした蝦夷統治政策のためだった。<br />
キリストとイスラムのようなもので、いくら互いに信じる神を説いても理解しない。天照大神を頂点とする西の政権には、得体の知れない神を信奉する東北は恐ろしかっただろう。<br />
＊＊＊<br />
アラハバキ神を具現化したような武神アテルイに田村麻呂も手こずった。同様に後に朝廷を脅かした平将門にも手こずった。<br />
そのため討ち取られたアテルイや荒夷(あらえびす)と言われた将門は、首と銅を切り離され二度と復活しないようにした。<br />
これも呪法である。ところが首だけでも飛び回る大怨霊神として朝廷を悩ませることになる。<br />
奈良、平安時代は怨霊が跋扈した時代である。<br />
特に三大怨霊とされる菅原道真・平将門・崇徳天皇は、歴代天皇が恐れた。朝廷は陰陽師から自社を総動員して都防衛をしたが効果が無く、殿上人に多くの被害を出したことで、ますます怨霊鎮撫に力を入れたことは言うまでもない。それでも百鬼夜行なる小物の怨霊や妖怪も夜な夜な都を跋扈するようになっていった。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/eff11f519c6677f406b060d8589f01c5.jpg" rel="lightbox[1574]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/eff11f519c6677f406b060d8589f01c5-199x300.jpg" alt="崇徳院怨霊" width="199" height="300" class="alignnone size-medium wp-image-1577" /></a><br />
＊＊＊<br />
更に「鬼」の存在である。<br />
日本書紀に両面宿儺という飛騨の鬼を征伐したとある。「討伐された鬼人」とされるが、これは吉備の温羅と同じである。今の神岡鉱山を手に入れたかった朝廷は、地元で篤く信頼されていた豪族を「モノ」として討伐したのである。<br />
歴史上では中央集権に従わない「まつろわぬもの」が「オニ」と一括りにされた。<br />
<a href="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/07bf83a6aaefd758f07b09d631fd8bbf.jpg" rel="lightbox[1574]"><img src="http://tiiki-saisei.jp/wp/wp-content/uploads/2022/02/07bf83a6aaefd758f07b09d631fd8bbf-300x141.jpg" alt="両面宿儺とＭＩＢ宇宙人" width="300" height="141" class="alignnone size-medium wp-image-1576" /></a><br />
時は下るが「酒呑童子」伝説も同様だ。源頼光は酒呑童子に「神便鬼毒酒」を飲ませ動かなくなったところで寝首を掻いた。しかし首を切られた後でも酒呑童子は頼光の兜に噛み付いた。<br />
酒呑童子は越後国生まれの豪族。やはり製鉄技術を持つ渡来人の関係だ。<br />
鬼と鉄は切っても切れない深い関係だ。<br />
太古の鬼を「古代製鉄民族」を指す言葉だと断言する人もいる。<br />
出雲風土記で出てくる鬼は一つ目の鬼であり、たたら製鉄で火により片眼を失った者たちであると言われる。<br />
アラハバキ妄想編―東日流外三郡誌2で書いたが、岩木山の麓には鬼由来の神社や伝説が残る。そして岩木山北麓では平安時代前後の古代製鉄施設跡が多く発掘されているのだ。<br />
これらの製鉄遺跡を普通に見れば、鬼とたたら製鉄の関係性が深いことが立証される。<br />
都に出没したオニたちは、朝廷に鉄を簒奪された製鉄種族の恨みが、凝縮された姿と捉えても良いだろう。</p>
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